は復《ま》た述懐を始めた。『ホラ、君が彼の蓮華寺へ引越す時、我輩も門前まで行きましたらう――実は、君だから斯様《こん》なこと迄も御話するんだが、彼寺には不義理なことがしてあつて、住職は非常に怒つて居る。我輩が飲む間は、交際《つきあ》はぬといふ。情ないとは思ふけれど、其様《そん》な関係で、今では娘の顔を見に行くことも出来ないやうな仕末。まあ、彼寺へ呉れて了つたお志保と、省吾と、それから亡くなつた総領と、斯う三人は今の家内の子では無いのさ。前《せん》の家内といふのは、矢張《やはり》飯山の藩士の娘でね、我輩の家《うち》の楽な時代に嫁《かたづ》いて来て、未だ今のやうに零落しない内に亡《な》くなつた。だから我輩は彼女《あいつ》のことを考へる度に、一生のうちで一番楽しかつた時代を思出さずには居られない。一盃《いつぱい》やると、きつと其時代のことを思出すのが我輩の癖で――だつて君、年を取れば、思出すより外に歓楽《たのしみ》が無いのだもの。あゝ、前《せん》の家内は反《かへ》つて好い時に死んだ。人間といふものは妙なもので、若い時に貰つた奴がどうしても一番好いやうな気がするね。それに、性質が、今の家内のやうに利《き》かん気では無かつたが、そのかはり昔風に亭主に便《たよ》るといふ風で、何処迄《どこまで》も我輩を信じて居た。蓮華寺へ行つたお志保――彼娘《あのこ》がまた母親に克《よ》く似て居て、眼付なぞはもう彷彿《そつくり》さ。彼娘の顔を見ると、直に前《せん》の家内が我輩の眼に映る。我輩ばかりぢやない、他《ひと》が克く其を言つて、昔話なぞを始めるものだから、さあ今の家内は面白くないと見えるんだねえ。正直御話すると、我輩も蓮華寺なぞへ彼娘を呉れたくは無かつた。然し吾家《うち》に置けば、彼娘の為にならない。第一、其では可愛さうだ。まあ、蓮華寺では非常に欲《ほし》がるし、奥様も子は無し、それに他の土地とは違つて寺院《てら》を第一とする飯山ではあり、するところからして、お志保を手放して遣つたやうな訳さ。』
聞けば聞くほど、丑松は気の毒に成つて来た。成程《なるほど》、左様《さう》言はれて見れば、落魄《らくはく》の画像《ゑすがた》其儘《そのまゝ》の様子のうちにも、どうやら武士らしい威厳を具へて居るやうに思はるゝ。
『丁度、それは彼娘の十三の時。』と敬之進は附和《つけた》して言つた。
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