とも無くて、斯《か》ういふ田園の景色を賞することが出来たなら、どんなにか青春の時代も楽しいものであらう。丑松が胸の中に戦ふ懊悩《あうなう》を感ずれば感ずる程、余計に他界《そと》の自然は活々《いき/\》として、身に染《し》みるやうに思はるゝ。南の空には星一つ顕《あらは》れた。その青々とした美しい姿は、一層夕暮の眺望を森厳《おごそか》にして見せる。丑松は眺め入り乍ら、自分の一生を考へて歩いた。
『しかし、其が奈何《どう》した。』と丑松は豆畠の間の細道へさしかゝつた時、自分で自分を激※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]《はげ》ますやうに言つた。『自分だつて社会の一員《ひとり》だ。自分だつて他《ひと》と同じやうに生きて居る権利があるのだ。』
 斯の思想《かんがへ》に力を得て、軈て帰りかけて振返つて見た時は、まだ敬之進の家族が働いて居た。二人の女が冠つた手拭は夕闇に仄白《ほのじろ》く、槌の音は冷々《ひや/″\》とした空気に響いて、『藁を集めろ』などゝいふ声も幽《かすか》に聞える。立つて是方《こちら》を向いたのは省吾か。今は唯動いて居る暗い影かとばかり、人々の顔も姿も判らない程に暮れた。

       (四)

『おつかれ』(今晩は)と逢《あ》ふ人毎に声を掛けるのは山家の黄昏《たそがれ》の習慣《ならはし》である。丁度新町の町はづれへ出て、帰つて行く農夫に出逢ふ度に、丑松は斯《この》挨拶を交換《とりかは》した。一ぜんめし、御休所、笹屋、としてある家《うち》の前で、また『おつかれ』を繰返したが、其は他の人でもない、例の敬之進であつた。
『おゝ、瀬川君か。』と敬之進は丑松を押留めるやうにして、『好い処で逢つた。何時か一度君とゆつくり話したいと思つて居た。まあ、左様《さう》急がんでもよからう。今夜は我輩に交際《つきあ》つて呉れてもよからう。斯ういふ処で話すのも亦《ま》た一興だ。是非、君に聞いて貰ひたいこともあるんだから――』
 斯《か》う慫慂《そゝのか》されて、丑松は敬之進と一緒に笹屋の入口の敷居を跨いで入つた。昼は行商、夜は農夫などが疲労《つかれ》を忘れるのは茲《こゝ》で、大な炉《ろ》には『ぼや』(雑木の枝)の火が赤々と燃上つた。壁に寄せて古甕《ふるがめ》のいくつか並べてあるは、地酒が溢れて居るのであらう。今は農家は忙しい時季《とき》で、長く御輿《みこし》を座《す》ゑるものも
前へ 次へ
全243ページ中40ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング