かへ》つたやうな心地《こゝろもち》になつた。見れば男女の農夫。そこに親子、こゝに夫婦、黄に揚る塵埃《ほこり》を満身に浴びながら、我劣らじと奮闘をつゞけて居た。籾《もみ》を打つ槌《つち》の音は地に響いて、稲扱《いねこ》く音に交つて勇しく聞える。立ちのぼる白い煙もところ/″\。雀の群は時々空に舞揚つて、騒しく鳴いて、軈《やが》てまたぱツと田の面に散乱れるのであつた。
 秋の日は烈しく照りつけて、人々には言ふに言はれぬ労苦を与へた。男は皆な頬冠《ほつかぶ》り、女は皆な編笠《あみがさ》であつた。それはめづらしく乾燥《はしや》いだ、風の無い日で、汗は人々の身体を流れたのである。野に満ちた光を通して、丑松は斯の労働の光景《ありさま》を眺めて居ると、不図《ふと》、倚凭《よりかゝ》つた『藁によ』の側《わき》を十五ばかりの一人の少年が通る。日に焼けた額と、柔嫩《やはらか》な目付とで、直に敬之進の忰《せがれ》と知れた。省吾《しやうご》といふのが其少年の名で、丁度丑松が受持の高等四年の生徒なのである。丑松は其|容貌《かほつき》を見る度に、彼の老朽な教育者を思出さずには居られなかつた。
『風間さん、何処《どちら》へ?』
 斯う声を掛けて見る。
『あの、』と省吾は言淀《いひよど》んで、『母さんが沖(野外)に居やすから。』
『母さん?』
『あれ彼処に――先生、あれが吾家《うち》の母さんでごはす。』
 と省吾は指差して見せて、すこし顔を紅《あか》くした。同僚の細君の噂《うはさ》、それを丑松も聞かないでは無かつたが、然し眼前《めのまへ》に働いて居る女が其人とはすこしも知らなかつた。古びた上被《うはつぱり》、茶色の帯、盲目縞《めくらじま》の手甲《てつかふ》、編笠に日を避《よ》けて、身体を前後に動かし乍ら、※[#「足へん+昔」、第4水準2−89−36]々《せつせ》と稲の穂を扱落《こきおと》して居る。信州北部の女はいづれも強健《つよ》い気象のものばかり。克《よ》く働くことに掛けては男子にも勝《まさ》る程であるが、教員の細君で野面《のら》にまで出て、烈しい気候を相手に精出すものも鮮少《すくな》い。是《これ》も境遇からであらう、と憐んで見て居るうちに、省吾はまた指差して、彼の槌を振上げて籾《もみ》を打つ男、彼《あれ》は手伝ひに来た旧《むかし》からの出入のもので、音作といふ百姓であると話した。母と彼男《あのを
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