の様子を見るのに、何処か身体の具合でも悪いやうだ。まあ、君は左様《さう》は思はないかね。だから穢多の逐出《おひだ》された話を聞くと、直に僕は彼《あ》の猫のことを思出したのさ。それで君が引越したくなつたのかと思つたのさ。』
『馬鹿なことを言ひたまへ。』と丑松は反返《そりかへ》つて笑つた。笑ふには笑つたが、然しそれは可笑《をかし》くて笑つたやうにも聞えなかつたのである。
『いや、戯言《じようだん》ぢやない。』と銀之助は丑松の顔を熟視《みまも》つた。『実際、君の顔色は好くない――診《み》て貰つては奈何《どう》かね。』
『僕は君、其様《そん》な病人ぢや無いよ。』と丑松は微笑《ほゝゑ》み乍ら答へた。
『しかし。』と銀之助は真面目《まじめ》になつて、『自分で知らないで居る病人はいくらも有る。君の身体は変調を来して居るに相違ない。夜寝られないなんて言ふところを見ても、どうしても生理的に異常がある――まあ僕は左様《さう》見た。』
『左様《さう》かねえ、左様見えるかねえ。』
『見えるともサ。妄想《まうさう》、妄想――今の患者の眼に映つた猫も、君の眼に映つた新平民も、皆《みん》な衰弱した神経の見せる幻像《まぼろし》さ。猫が捨てられたつて何だ――下らない。穢多が逐出《おひだ》されたつて何だ――当然《あたりまへ》ぢや無いか。』
『だから土屋君は困るよ。』と丑松は対手《あひて》の言葉を遮《さへぎ》つた。『何時《いつ》でも君は早呑込だ。自分で斯うだと決めて了ふと、もう他の事は耳に入らないんだから。』
『すこし左様《さう》いふ気味も有ますなあ。』と文平は如才なく。
『だつて引越し方があんまり唐突《だしぬけ》だからさ。』と言つて、銀之助は気を変へて、『しかし、寺の方が反つて勉強は出来るだらう。』
『以前《まへ》から僕は寺の生活といふものに興味を持つて居た。』と丑松は言出した。丁度下女の袈裟治《けさぢ》(北信に多くある女の名)が湯沸《ゆわかし》を持つて入つて来た。

       (三)

 信州人ほど茶を嗜《たしな》む手合も鮮少《すくな》からう。斯《か》ういふ飲料《のみもの》を好むのは寒い山国に住む人々の性来の特色で、日に四五回づゝ集つて飲むことを楽みにする家族が多いのである。丑松も矢張《やはり》茶好の仲間には泄《も》れなかつた。茶器を引寄せ、無造作に入れて、濃く熱いやつを二人の客にも勧め、自分も
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