あふむいて見ると、銀杏《いてふ》に近い二階の窓の障子を開けて、顔を差出して呼ぶのであつた。
『まあ、上りたまへ。』
 と復た呼んだ。

       (二)

 銀之助文平の二人は丑松に導かれて暗い楼梯《はしごだん》を上つて行つた。秋の日は銀杏の葉を通して、部屋の内へ射しこんで居たので、変色した壁紙、掛けてある軸、床の間に置並べた書物《ほん》と雑誌の類《たぐひ》まで、すべて黄に反射して見える。冷々《ひや/″\》とした空気は窓から入つて来て、斯の古い僧坊の内にも何となく涼爽《さはやか》な思を送るのであつた。机の上には例の『懴悔録』、読伏せて置いた其本に気がついたと見え、急に丑松は片隅へ押隠すやうにして、白い毛布を座蒲団がはりに出して薦《すゝ》めた。
『よく君は引越して歩く人さ。』と銀之助は身辺《あたり》を眺め廻し乍ら言つた。『一度瀬川君のやうに引越す癖が着くと、何度でも引越したくなるものと見える。まあ、部屋の具合なぞは、先の下宿の方が好ささうぢやないか。』
『何故《なぜ》御引越になつたんですか。』と文平も尋ねて見る。
『どうも彼処《あそこ》の家《うち》は喧《やかま》しくつて――』斯《か》う答へて丑松は平気を装はうとした。争はれないもので、困つたといふ気色《けしき》はもう顔に表れたのである。
『そりやあ寺の方が静は静だ。』と銀之助は一向頓着なく、『何ださうだねえ、先の下宿では穢多が逐出《おひだ》されたさうだねえ。』
『さう/\、左様《さう》いふ話ですなあ。』と文平も相槌《あひづち》を打つた。
『だから僕は斯う思つたのさ。』と銀之助は引取つて、『何か其様《そん》な一寸したつまらん事にでも感じて、それで彼《あの》下宿が嫌に成つたんぢやないかと。』
『どうして?』と丑松は問ひ反した。
『そこがそれ、君と僕と違ふところさ。』と銀之助は笑ひ乍ら、『実は此頃《こなひだ》或雑誌を読んだところが、其中に精神病患者のことが書いてあつた。斯うさ。或人が其男の住居《すまひ》の側《わき》に猫を捨てた。さあ、其猫の捨ててあつたのが気になつて、妻君にも相談しないで、其日の中にぷいと他へ引越して了つた。斯ういふ病的な頭脳《あたま》の人になると、捨てられた猫を見たのが移転《ひつこし》の動機になるなぞは珍しくも無い、といふ話があつたのさ。はゝゝゝゝ――僕は瀬川君を精神病患者だと言ふ訳では無いよ。しかし君
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