ことを考へると、実際|哭《な》きたいやうな気が起ります。まあ、考へて見て下さい。唯あの男は素性が違ふといふだけでせう。それで職業も捨てなければならん、名誉も捨てなければならん――是程《これほど》残酷な話が有ませうか。』
『しかし、』とお志保は清《すゞ》しい眸《ひとみ》を輝した。『父親《おとつ》さんや母親《おつか》さんの血統《ちすぢ》が奈何《どんな》で御座ませうと、それは瀬川さんの知つたことぢや御座ますまい。』
『左様です――確かに左様です――彼男の知つたことでは無いんです。左様貴方が言つて下されば、奈何《どんな》に僕も心強いか知れません。実は僕は斯う思ひました――彼男の素性を御聞に成つたら、定めし貴方も今迄の瀬川君とは考へて下さるまいかと。』
『何故《なぜ》でせう?』
『だつて、それが普通ですもの。』
『あれ、他《ひと》は左様《さう》かも知れませんが、私は左様は思ひませんわ。』
『真実《ほんと》に? 真実に貴方は左様考へて下さるんですか――』
『まあ、奈何《どう》したら好う御座んせう。私は是でも真面目に御話して居る積りで御座ますのに。』
『ですから、僕が其を伺ひたいと言ふんです。』
『其と仰《おつしや》るのは?』
とお志保は問ひ反して、対手《あひて》の心を推量し乍ら眺めた。若々しい血潮は思はずお志保の頬に上るのであつた。
(三)
力の無い謦※[#「亥+欠」、第3水準1−86−30]《せき》の声が奥の方で聞えた。急にお志保は耳を澄して心配さうに聞いて居たが、軈《やが》て一寸|会釈《ゑしやく》して奥の方へ行つた。銀之助は独り炉辺《ろばた》に残つて燃え上る『ぼや』の火炎《ほのほ》を眺《なが》め乍ら、斯《か》ういふ切ない境遇のなかにも屈せず倒れずに行《や》る気で居るお志保の心の若々しさを感じた。烈しい気候を相手に克《よ》く働く信州北部の女は、いづれも剛健な、快活な気象に富むのである。苦痛に堪へ得ることは天性に近いと言つてもよい。まあ、お志保も矢張《やはり》其血を享《う》けたのだ。優婉《やさ》しいうちにも、どことなく毅然《しやん》としたところが有る。斯う銀之助は考へて、奈何《どう》友達のことを切出したものか、と思ひつゞけて居た。間も無くお志保は奥の方から出て来た。
『奈何《どう》ですか、父上《おとつ》さんの御様子は。』と銀之助は同情深《おもひやりぶか》く
前へ
次へ
全243ページ中230ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング