初めた。
貧し苦しい境遇に居るお志保は、直に、銀之助の頼母《たのも》しい気象を看て取つたのである。のみならず、丑松と斯人とは無二の朋友であるといふことも好く承知して居る。真実《ほんたう》に自分の心地《こゝろもち》も解つて、身を入れて話を聞いて呉れるのは斯人だ、と斯う可懐《なつか》しく思ふにつけても、さて、奈何して父親の許《ところ》へ帰つて居るか、其を尋ねられた時はもう/\胸一ぱいに成つて了《しま》つた。蓮華寺を脱けて出ようと決心する迄の一伍一什《いちぶしじゆう》――思へば涙の種――まあ、何から話して可いものやら、お志保には解らない位であつた。流石《さすが》娘心の感じ易さ、暗く煤《すゝ》けた土壁の内部《なか》の光景《ありさま》をも物|羞《はづか》しく思ふといふ風で、『ぼや』を折焚《おりく》べて炉の火を盛んにしたり、着物の前を掻合せたりして語り聞かせる。お志保に言はせると、いよ/\彼の寺を出ようと思立つたのは、泣いて、泣いて、泣尽した揚句のこと。『仮令《たとひ》先方《さき》が親らしい行為《おこなひ》をしない迄も、是迄《これまで》育てゝ貰つた恩義も有る。一旦蓮華寺の娘となつた以上は、奈何な辛いことがあらうと決して家へ帰るな。』――とは堅い父の言葉でもあつた。宵闇の空に紛《まぎ》れて迷ひ出たお志保は、だから、何処へ帰るといふ目的《めあて》も無かつたのである。悲しい夢のやうに歩いて来る途中、不図、雪の上に倒れて居る人に出逢《であ》つた。見れば其酔漢《そのさけよひ》は父であつた。其時お志保は左様《さう》思つた。父はもう凍え死んだのかと思つた。丁度通りかかる音作を呼留めて、一緒に助け起して、漸《やつと》のことで家まで連帰つて見ると、今すこし遅からうものなら既に生命を奪《と》られるところ。それぎり敬之進は床の上に横に成つた。医者の話によると、身体の衰弱《おとろへ》は一通りで無い。所詮《しよせん》助かる見込は有るまいとのことである。
そればかりでは無い。不幸《ふしあはせ》は斯の屋根の下にもお志保を待受けて居た。来て見ると、もう継母も、異母《はらちがひ》の弟妹《きやうだい》も居なかつた。尤《もつと》も、其前の晩、烈しい夫婦喧嘩があつて、継母はお志保のことや父の酒のことを言つて、奈何して是から将来《さき》生計《くらし》が立つと泣叫んだといふ。いづれ下高井にある生家《さと》を指して、三
前へ
次へ
全243ページ中227ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング