生徒の顔面《おもて》に注いだ。省吾なぞから見ると、ずつと夙慧《ませ》た少年で、言ふことは了然《はつきり》好く解る。
『実は、御願ひがあつて上りました。』と前置をして、級長は一同の心情《こゝろもち》を表白《いひあらは》した。何卒《どうか》して彼の教員を引留めて呉れるやうに。仮令《たとへ》穢多であらうと、其様《そん》なことは厭《いと》はん。現に生徒として新平民の子も居る。教師としての新平民に何の不都合があらう。是はもう生徒一同の心からの願ひである。頼む。斯う述べて、級長は頭を下げた。
『校長先生、御願ひでごはす。』
と一同声を揃へて、各自《てんで》に頭を下げるのであつた。
其時校長は倚子を離れた。立つて一同の顔を見渡し乍ら、『むゝ、諸君の言ふことは好く解りました。其程熱心に諸君が引留めたいといふ考へなら、そりやあもう我輩だつて出来るだけのことは尽します。しかし物には順序がある。頼みに来るなら、頼みに来るで、相当の手続を踏んで――総代を立てるとか、願書を差出すとかして、規則正しくやつて来るのが礼です。左様どうも諸君のやうに、大勢一緒に押掛けて来て、さあ引留めて呉れなんて――何といふ無作法な行動《やりかた》でせう。』と言はれて、級長は何か弁解《いひわけ》を為《し》ようとしたが、軈《やが》て涙ぐんで黙つて了つた。
『まあ、御聞きなさい。』と校長は卓子《テーブル》の上にある書面《かきつけ》を拡《ひろ》げて見せ乍ら、『是通り瀬川先生からは進退伺が出て居ます。是《これ》は一応郡視学の方へ廻さなければなりませんし、町の学務委員にも見せなければなりません。仮令《たとひ》我輩が瀬川先生を救ひたいと思つて、単独《ひとり》で焦心《あせ》つて見たところで、町の方で聞いて呉れなければ仕方が無いぢや有ませんか。』と言つて、すこし声を和げて、『然し、我輩一人の力で、奈何《どう》是《これ》を処置するといふ訳にもいかんのですから、そこを諸君も好く考へて下さい。彼様《あゝ》いふ良い教師を失ふといふことは、諸君ばかりぢやない、我輩も残念に思ふ。諸君の言ふことは好く解りました。兎に角、今日は是で帰つて、学課を怠らないやうにして下さい。諸君が斯ういふことに喙《くちばし》を容《い》れないでも、無論学校の方で悪いやうには取計ひません――諸君は勉強が第一です。』
文平は腕組をして聞いて居た。手持無沙汰に帰つて行
前へ
次へ
全243ページ中225ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング