した。
『長野新聞?』と丑松は考深い目付をして、『今日は未だ読んで見ません。』
『そいつは不思議だ――君が読まないといふのは不思議だ。』
『何故《なぜ》?』
『だつて、君のやうに猪子先生を崇拝して居ながら、あの演説の筆記を読まないといふのは不思議だからサ。まあ、是非読んで見たまへ。それに、あの新聞の評が面白い。猪子先生のことを、「新平民中の獅子」だなんて――巧いことを言ふ記者が居るぢやあないか。』
 斯う口では言ふものゝ、文平の腹の中では何を考へて居るか、と丑松は深く先方《さき》の様子を疑つた。お志保はまた熱心に耳を傾けて、二人の顔を見比べて居たのである。
『猪子先生の議論は兎《と》に角《かく》、あの意気には感服するよ。』と文平は言葉を継いで、『あの演説の筆記を見たら、猪子先生の書いたものを読んで見たくなつた。まあ君は審《くは》しいと思ふから、其で聞くんだが、あの先生の著述では何が一番傑作と言はれるのかね。』
『どうも僕には解らないねえ。』斯う丑松は答へた。
『いや、戯語《じようだん》ぢや無いよ――実際、君、僕は穢多といふものに興味を持つて来た。あの先生のやうな人物が出るんだから、確に研究して見る価値《ねうち》は有るに相違ない。まあ、君だつても、其で「懴悔録」なぞを読む気に成つたんだらう。』と文平は嘲《あざけ》るやうな語気で言つた。
 丑松は笑つて答へなかつた。流石《さすが》にお志保の居る側で、穢多といふ言葉が繰返された時は、丑松はもう顔色を変へて、自分で自分を制へることが出来なかつたのである。怒気《いかり》と畏怖《おそれ》とはかはる/″\丑松の口唇《くちびる》に浮んだ。文平は又、鋭い目付をして、其微細な表情までも見泄《みも》らすまいとする。『御気の毒だが――左様《さう》君のやうに隠したつても無駄だよ』と斯う文平の目が言ふやうにも見えた。
『瀬川君、何か君のところには彼の先生のものが有るだらう。何でも好いから僕に一冊貸して呉れ給へな。』
『無いよ――何にも僕のところには無いよ。』
『無い? 無いツてことがあるものか。君の許《ところ》に無いツてことがあるものか。なにも左様《さう》隠さないで、一冊位貸して呉れたつて好ささうなものぢやないか。』
『いや、僕は隠しやしない。無いから無いと言ふんさ。』
 遽然《にはかに》、蓮華寺の住職が説教の座へ上つたので、二人はそれぎり口を
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