も熱心に。
『他の学校へ移すとか、後釜《あとがま》へは――それ、君の気に入つた人を入れるとかサ。』
『そこです――同じ移すにしても、何か口実が無いと――余程そこは巧《うま》くやらないと――あれで瀬川君はなか/\生徒間に人望が有ますから。』
『さうさ、過失の無いものに向つて、出て行けとも言はれん。はゝゝゝゝ、余りまた細工をしたやうに思はれるのも厭だ。』と言つて郡視学は気を変へて、『まあ私の口から甥を褒めるでも有ませんが、貴方の為には必定《きつと》御役に立つだらうと思ひますよ。瀬川君に比べると、勝るとも劣ることは有るまいといふ積りだ。一体瀬川君は何処が好いんでせう。どうして彼様《あん》な教師に生徒が大騒ぎをするんだか――私なんかには薩張《さつぱり》解らん。他《ひと》の名誉に思ふことを冷笑するなんて、奈何《どう》いふことがそんならば瀬川君なぞには難有《ありがた》いんです。』
『先づ猪子蓮太郎あたりの思想でせうよ。』
『むゝ――あの穢多か。』と郡視学は顔を渋《しか》める。
『あゝ。』と校長も深く歎息した。『猪子のやうな男の書いたものが若いものに読まれるかと思へば恐しい。不健全、不健全――今日の新しい出版物は皆な青年の身をあやまる原因《もと》なんです。その為に畸形《かたは》の人間が出来て見たり、狂見《きちがひみ》たやうな男が飛出したりする。あゝ、あゝ、今の青年の思想ばかりは奈何《どう》しても吾儕《われ/\》に解りません。』
(三)
不図応接室の戸を叩《たゝ》く音がした。急に二人は口を噤《つぐ》んだ。復《ま》た叩く。『お入り』と声をかけて、校長は倚子《いす》を離れた。郡視学も振返つて、戸を開けに行く校長の後姿を眺め乍ら、誰、町会議員からの使ででもあるか、斯う考へて、入つて来る人の様子を見ると――思ひの外な一人の教師、つゞいてあらはれたのが丑松であつた。校長は思はず郡視学と顔を見合せたのである。
『校長先生、何か御用談中ぢや有ませんか。』
と丑松は尋ねた。校長は一寸|微笑《ほゝゑ》んで、
『いえ、なに、別に用談でも有ません――今二人で御噂をして居たところです。』
『実はこの風間さんですが、是非郡視学さんに御目に懸つて、直接に御願ひしたいことがあるさうですから。』
斯《か》う言つて、丑松は一緒に来た同僚を薦《すゝ》めるやうにした。
風間|敬之進《けいのしん
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