すか、あゝ左様《さう》でしたらう。私の許《ところ》へも長い手紙をよこしましたよ。其を読んだ時は、彼男《あのをとこ》の喜ぶ顔付が目に見えるやうでした。実際、甥は貴方の為を思つて居るのですからな。』
郡視学が甥と言つたのは、検定試験を受けて、合格して、此頃新しく赴任して来た正教員。勝野文平といふのが其男の名である。割合に新参の校長は文平を引立てゝ、自分の味方に附けようとしたので。尤《もつと》も席順から言へば、丑松は首座。生徒の人望は反つて校長の上にある程。銀之助とても師範出の若手。いかに校長が文平を贔顧《ひいき》だからと言つて、二人の位置を動かす訳にはいかない。文平は第三席に着けられて出たのであつた。
『それに引換へて瀬川君の冷淡なことは。』と校長は一段声を低くした。
『瀬川君?』と郡視学も眉をひそめる。
『まあ聞いて下さい。万更《まんざら》の他人が受賞したではなし、定めし瀬川君だつても私の為に喜んで居て呉れるだらう、と斯う貴方なぞは御考へでせう。ところが大違ひです。こりやあ、まあ、私が直接《ぢか》に聞いたことでは無いのですけれど――又、私に面と向つて、まさかに其様《そん》なことが言へもしますまいが――といふのは、教育者が金牌なぞを貰つて鬼の首でも取つたやうに思ふのは大間違だと。そりやあ成程《なるほど》人爵の一つでせう。瀬川君なぞに言はせたら価値《ねうち》の無いものでせう。然し金牌は表章《しるし》です。表章が何も難有《ありがた》くは無い。唯其意味に価値《ねうち》がある。はゝゝゝゝ、まあ左様《さう》ぢや有ますまいか。』
『どうしてまた瀬川君は其様《そん》な思想《かんがへ》を持つのだらう。』と郡視学は嘆息した。
『時代から言へば、あるひは吾儕《われ/\》の方が多少|後《おく》れて居るかも知れません。しかし新しいものが必ずしも好いとは限りませんからねえ。』と言つて校長は嘲《あざけ》つたやうに笑つて、『なにしろ、瀬川君や土屋君が彼様《あゝ》して居たんぢや、万事私も遣りにくゝて困る。同志の者ばかり集つて、一致して教育事業をやるんででもなけりやあ、到底面白くはいきませんさ。勝野君が首座ででもあつて呉れると、私も大きに安心なんですけれど。』
『そんなに君が面白くないものなら、何とか其処には方法も有さうなものですがなあ。』と郡視学は意味ありげに相手の顔を眺めた。
『方法とは?』と校長
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