、丑松は先輩と細君とが斯ういふ談話《はなし》を為るのを聞いた。
『大丈夫だよ、左様《さう》お前のやうに心配しないでも。』と蓮太郎は叱るやうに。
『その大丈夫が大丈夫で無いから困る。』と細君は歩き乍ら嘆息した。『だつて、貴方は少許《ちつと》も身体を関はないんですもの。私が随いて居なければ、どんな無理を成さるか知れないんですもの。それに、斯の山の上の陽気――まあ、私は考へて見たばかりでも怖《おそろ》しい。』
『そりやあ海岸に居るやうな訳にはいかないさ。』と蓮太郎は笑つて、『しかし、今年は暖和《あたゝか》い。信州で斯様《こん》なことは珍しい。斯の位の空気を吸ふのは平気なものだ。御覧な、其証拠には、信州へ来てから風邪一つ引かないぢやないか。』
『でせう。大変に快《よ》く御成《おなん》なすつたでせう。ですから猶々《なほ/\》大切にして下さいと言ふんです。折角《せつかく》快く成りかけて、復《ま》た逆返《ぶりかへ》しでもしたら――』
『ふゝ、左様《さう》大事を取つて居た日にや、事業《しごと》も何も出来やしない。』
『事業? 壮健《たつしや》に成ればいくらでも事業は出来ますわ。あゝ、一緒に東京へ帰つて下されば好いんですのに。』
『解らないねえ。未《ま》だ其様《そん》なことを言つてる。奈何してまあ女といふものは左様《さう》解らないだらう。何程《どれほど》私が市村さんの御世話に成つて居るか、お前だつて其位《それくらゐ》のことは考へさうなものぢやないか。其人の前で、私に帰れなんて――すこし省慮《かんがへ》の有るものなら、彼様《あん》なことの言へた義理ぢや無からう。彼様《あゝ》いふことを言出されると、折角|是方《こつち》で思つたことも無に成つて了ふ。それに今度は、すこし自分で研究したいことも有る。今胸に浮んで居る思想《かんがへ》を完成《まと》めて書かうといふには、是非とも自分で斯の山の上を歩いて、田園生活といふものを観察しなくちやならない。それには実にもつて来いといふ機会だ。』と言つて、蓮太郎はすこし気を変へて、『あゝ好い天気だ。全く小春日和《こはるびより》だ。今度の旅行は余程面白からう――まあ、お前も家《うち》へ行つて待つて居て呉れ、信州土産はしつかり持つて帰るから。』
 二人は暫時《しばらく》無言で歩いた。丑松は右の手の鞄を左へ持ち変へて、黙つて後から随いて行つた。やがて高い白壁造りの
前へ 次へ
全243ページ中111ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング