、一緒に東京の方へ帰つて呉れと言出したが、蓮太郎は聞入れなかつた。もと/\友人や後進のものを先にして、家のものを後にするのが蓮太郎の主義で、今度信州に踏留まるといふのも、畢竟《つまり》は弁護士の為に尽したいから。其は細君も万々承知。夫の気象として、左様《さう》いふのは無理もない。しかし斯の山の上で、夫の病気が重りでもしたら。斯ういふ心配は深く細君の顔色に表はれる。『奥様《おくさん》、其様《そんな》に御心配無く――猪子君は私が御預りしましたから。』と弁護士が引受顔なので、細君も強ひてとは言へなかつた。
 先輩が可懐《なつか》しければ其細君までも可懐しい。斯う思ふ丑松の情は一層深くなつた。始めて汽車の中で出逢《であ》つた時からして、何となく人格の奥床《おくゆか》しい細君とは思つたが、さて打解けて話して見ると、別に御世辞が有るでも無く、左様《さう》かと言つて可厭《いや》に澄まして居るといふ風でも無い――まあ、極《ご》く淡泊《さつぱり》とした、物に拘泥《こうでい》しない気象の女と知れた。風俗《なりふり》なぞには関《かま》はない人で、是《これ》から汽車に乗るといふのに、其程《それほど》身のまはりを取修《とりつくろ》ふでも無い。男の見て居る前で、僅かに髪を撫《な》で付けて、旅の手荷物もそこ/\に取収《とりまと》めた。あの『懴悔録』の中に斯人《このひと》のことが書いてあつたのを、急に丑松は思出して、兎《と》も角《かく》も普通の良い家庭に育つた人が種族の違ふ先輩に嫁《かたづ》く迄《まで》の其二人の歴史を想像して見た。
 汽車を待つ二三時間は速《すぐ》に経《た》つた。左右《さうかう》するうちに、停車場《ステーション》さして出掛ける時が来た。流石《さすが》弁護士は忙《せは》しい商売柄、一緒に門を出ようと為《す》るところを客に捕つて、立つて時計を見乍らの訴訟話。蓮太郎は細君を連れて一歩《ひとあし》先へ出掛けた。『あゝ何時復た先生に御目に懸れるやら。』斯う独語《ひとりごと》のやうに言つて、丑松も見送り乍ら随いて行つた。せめてもの心尽し、手荷物の鞄《かばん》は提げさせて貰ふ。其様《そん》なことが丑松の身に取つては、嬉敷《うれしく》も、名残惜敷《なごりをしく》も思はれたので。
 初冬の光は町の空に満ちて、三人とも羞明《まぶし》い位であつた。上田の城跡について、人通りのすくない坂道を下りかけた時
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