豊野と言つて汽車に乗るべきところへ着いたは、午後の二時頃。車で駈付けた高柳も、同じ列車を待合せて居たと見え、発車時間の近いた頃に休茶屋からやつて来た。『何処《どこ》へ行くのだらう、彼《あの》男は。』斯う思ひ乍ら、丑松は其となく高柳の様子を窺《うかゞ》ふやうにして見ると、先方《さき》も同じやうに丑松を注意して見るらしい。それに、不思議なことには、何となく丑松を避けるといふ風で、成るべく顔を合すまいと勉めて居た。唯互ひに顔を知つて居るといふ丈、つひぞ名乗合つたことが有るではなし、二人は言葉を交さうともしなかつた。
軈て発車を報せる鈴の音が鳴つた。乗客はいづれも埒《らち》の中へと急いだ。盛《さかん》な黒烟《くろけぶり》を揚げて直江津の方角から上つて来た列車は豊野|停車場《ステーション》の前で停つた。高柳は逸早《いちはや》く群集《ひとごみ》の中を擦抜《すりぬ》けて、一室の扉《と》を開けて入る。丑松はまた機関車|近邇《より》の一室を択《えら》んで乗つた。思はず其処に腰掛けて居た一人の紳士と顔を見合せた時は、あまりの奇遇に胸を打たれたのである。
『やあ――猪子先生。』
と丑松は帽子を脱いで挨拶した。紳士も、意外な処で、といふ驚喜した顔付。
『おゝ、瀬川君でしたか。』
(二)
夢寐《むび》にも忘れなかつた其人の前に、丑松は今偶然にも腰掛けたのである。壮年の発達に驚いたやうな目付をして、可懐《なつか》しさうに是方《こちら》を眺めたは、蓮太郎。敬慕の表情を満面に輝かし乍ら、帰省の由緒《いはれ》を物語るのは、丑松。実に是|邂逅《めぐりあひ》の唐突で、意外で、しかも偽りも飾りも無い心の底の外面《そと》に流露《あらは》れた光景《ありさま》は、男性《をとこ》と男性との間に稀《たま》に見られる美しさであつた。
蓮太郎の右側に腰掛けて居た、背の高い、すこし顔色の蒼い女は、丁度読みさしの新聞を休《や》めて、丑松の方を眺めた。玻璃越《ガラスご》しに山々の風景を望んで居た一人の肥大な老紳士、是も窓のところに倚凭《よりかゝ》つて、振返つて二人の様子を見比べた。
新聞で蓮太郎のことを読んで見舞状まで書いた丑松は、この先輩の案外元気のよいのを眼前《めのまへ》に見て、喜びもすれば不思議にも思つた。かねて心配したり想像したりした程に身体《からだ》の衰弱《おとろへ》が目につくでも無
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