し顔色を変へて、言ふに言はれぬ恐怖《おそれ》を表したのである。戯れて居るので無いといふことは、其真面目な眼付を見ても知れた。
『や――復た呼ぶ声がする。何だか斯う窓の外の方で。』と丑松は耳を澄まして、『しかし、あまり不思議だ。一寸、僕は失敬するよ――もう一度行つて見て来るから。』
ぷいと丑松は駈出して行つた。
さあ、銀之助は友達のことが案じられる。敬之進はもう心に驚いて了《しま》つて、何かの前兆《しらせ》では有るまいか――第一、父親の呼ぶといふのが不思議だ、と斯う考へつゞけたのである。
『それはさうと、』と敬之進は思付いたやうに、『斯うして吾儕《われ/\》ばかり火鉢にあたつて居るのも気懸《きがゝ》りだ。奈何《どう》でせう、二人で行つて見てやつては。』
『むゝ、左様《さう》しませうか。』と銀之助も火鉢を離れて立上つた。『瀬川君はすこし奈何《どう》かしてるんでせうよ。まあ、僕に言はせると、何か神経の作用なんですねえ――兎《と》に角《かく》、それでは一寸待つて下さい。僕が今、手提洋燈《てさげランプ》を点《つ》けますから。』
(二)
深い思に沈み乍ら、丑松は声のする方へ辿《たど》つて行つた。見れば宿直室の窓を泄《も》れる灯《ひ》が、僅に庭の一部分を照して居るばかり。校舎も、樹木も、形を潜めた。何もかも今は夜の空気に包まれて、沈まり返つて、闇に隠れて居るやうに見える。それは少許《すこし》も風の無い、※[#「門<貝」、第4水準2−91−57]《しん》とした晩で、寒威《さむさ》は骨に透徹《しみとほ》るかのやう。恐らく山国の気候の烈しさを知らないものは、斯《か》うした信濃の夜を想像することが出来ないであらう。
父の呼ぶ声が復《ま》た聞えた。急に丑松は立留つて、星明りに周囲《そこいら》を透《すか》して視《み》たが、別に人の影らしいものが目に入るでも無かつた。すべては皆な無言である。犬一つ啼いて通らない斯の寒い夜に、何が音を出して丑松の耳を欺かう。
『丑松、丑松。』
とまた呼んだ。さあ、丑松は畏《おそ》れず慄《ふる》へずに居られなかつた。心はもう底の底までも掻乱《かきみだ》されて了《しま》つたのである。たしかに其は父の声で――皺枯《しやが》れた中にも威厳のある父の声で、あの深い烏帽子《ゑぼし》ヶ|嶽《だけ》の谷間《たにあひ》から、遠く斯《こ》の飯山に居る丑松
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