は居られなく成つて来た。
『実はねえ――まあ、不思議なことがあるんだ。』
『不思議なとは?』と銀之助も眉をひそめる。
『斯ういふ訳さ――僕が手提洋燈《てさげランプ》を持つて、校舎の外を一廻りして、あの運動場の木馬のところまで行くと、誰か斯う僕を呼ぶやうな声がした。見れば君、誰も居ないぢやないか。はてな、聞いたやうな声だと思つて、考へて見ると、其筈《そのはず》さ――僕の阿爺《おやぢ》の声なんだもの。』
『へえ、妙なことが有れば有るものだ。』と敬之進も不審《いぶか》しさうに、『それで、何ですか、奈何《どん》な風に君を呼びましたか、其声は。』
『「丑松、丑松」とつゞけざまに。』
『フウ、君の名前を?』と敬之進はもう目を円《まる》くして了《しま》つた。
『はゝゝゝゝ。』と銀之助は笑出して、『馬鹿なことを言ひたまへ。瀬川君も余程《よツぽど》奈何《どう》かして居るんだ。』
『いや、確かに呼んだ。』と丑松は熱心に。
『其様《そん》な事があつて堪るものか。何かまた間違へでも為たんだらう。』
『土屋君、君は左様《さう》笑ふけれど、確かに僕の名を呼んだに相違ないよ。風が呻吟《うな》つたでも無ければ、鳥が啼いたでも無い。そんな声を、まさかに僕だつて間違へる筈も無からうぢやないか。どうしても阿爺だ。』
『君、真実《ほんたう》かい――戯語《じようだん》ぢや無いのかい――また欺《かつ》ぐんだらう。』
『土屋君は其だから困る。僕は君これでも真面目《まじめ》なんだよ。確かに僕は斯《こ》の耳で聞いて来た。』
『其耳が宛《あて》に成らないサ。君の父上《おとつ》さんは西乃入《にしのいり》の牧場に居るんだらう。あの烏帽子《ゑぼし》ヶ|嶽《だけ》の谷間《たにあひ》に居るんだらう。それ、見給へ。其|父上《おとつ》さんが斯様《こん》な隔絶《かけはな》れた処に居る君の名前を呼ぶなんて――馬鹿らしい。』
『だから不思議ぢやないか。』
『不思議? ちよツ、不思議といふのは昔の人のお伽話《とぎばなし》だ。はゝゝゝゝ、智識の進んで来た今日、そんな馬鹿らしいことの有るべき筈が無い。』
『しかし、土屋君。』と敬之進は引取つて、『左様《さう》君のやうに一概に言つたものでもないよ。』
『はゝゝゝゝ、旧弊な人は是だから困る。』と銀之助は嘲《あざけ》るやうに笑つた。
急に丑松は聞耳を立てた。復《ま》た何か聞きつけたといふ風で、すこ
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