夢をしも
見るにやあらむ海にきて
まのあたりなるこの夢は

これを思へば胸滿ちて
流るゝ涙せきあへず
今はた櫂をうちふりて
波と戰ふ力なく
死して仆《たふ》るゝ人のごと
身を舟板に投《な》げ伏しぬ

一葉《ひとは》にまがふ舟の中
波にまかせて流れつゝ
聲を放ちて泣き入れば
げに底ひなきわだつみの
上に行方も定めなき
鴎《かもめ》の身こそ悲しけれ

時には遠き常闇《とこやみ》の
光なき世に流れ落ち
朽ちて行くかと疑はれ
時には頼む人もなき
冷《つめ》たき冥府《よみ》の水底《みなそこ》に
沈むかとこそ思はるれ

あゝあやまちぬよしや身は
おろかなりともかくてわれ
もろく果つべき命かは
照る日や月や上にあり
大龍神《おほたつがみ》も心あらば
賤《いや》しきわれをみそなはせ

かくと心に定めては
波ものかはと勵《はげ》みたち
闇《やみ》のかなたを窺ふに
空《そら》はさびしき雨となり
潮《うしほ》にうつる燐《りん》の火の
亂れて燃ゆる影青し

我《われ》よるべなき海の上《へ》に
活《い》ける力の胸の火を
わづかに頼む心より
消えてはもゆる闇の夜《よ》の
その靜かなる光こそ
漂《たゞよ》ふ身にはうれしけれ

危ふきばかりともすれば
波にゆらるゝこの舟の
行くへを照らせ燐の火よ
海よりいでて海を焚く
青きほのほの影の外
道しるべなき今の身ぞ

碎かば碎けいざさらば
波うつ櫂はこゝにあり
たとへ舟路は暗くとも
世に勝つ道は前にあり
あゝ新潮《にひじほ》にうち乘りて
命運《さだめ》を追うて活《い》きて歸らむ
[#改丁]

  落梅集より
     明治三十二年――同三十三年
           (小諸にて)
[#改丁]

 常盤樹


あら雄々しきかな傷ましきかな
かの常盤樹の落ちず枯れざる
常盤樹の枯れざるは
百千の草の落つるより
傷ましきかな
其枝に懸る朝の日
其幹を運《めぐ》る夕月
など行く旅の迅速《すみやか》なるや
など電の影と馳するや
蝶の舞
花の笑
など遊ぶ日の世に短きや
など其醉の早く醒むるや
蟲草の葉に悲めば
一時《ひととき》にして既に霜
鳥潮の音に驚けば
一時にして既に雪
木枯高く秋落ちて
自然の色はあせゆけど
大力《だいりき》天を貫きて
坤軸遂に靜息《やすみ》なし
ものみな速くうらがれて
長き寒さも知らぬ間に
汝《いまし》千歳の時に嘯き
獨りし立つは何の力ぞ
白銀の花霏々として
吹雪の煙|闇《くら》き時
四方は氷に閉されて
江海も音《おと》をひそむ時
汝《いまし》緑の蔭も朽ちせず
空を凌ぐは何の力ぞ
立てよ友なき野邊の帝王《すめらぎ》
ゆゝしく高く立てよ常盤樹
汝《いまし》の長き春なくば
山の命も老いなむか
汝《いまし》の深き息なくば
谷の響も絶えなむか
あしたには葉をうつ霙
ゆふべには枝うつ霰
千草も知らぬ冬の日の
嵐に叫ぶうきなやみ
いづれの日にか
氷は解けて
其葉の涙
消えむとすらむ
あゝよしさらば枝も摧《くだ》けて
終の色の落ちなむ日まで
雲浮かば
無縫の天衣
風立たば
不朽の緒琴
おごそかに
立てよ常盤樹
あら雄々しきかな傷ましきかな
かの常盤樹の落ちず枯れざる
常盤樹の枯れざるは
百千《もゝち》の草の落つるより
傷ましきかな
[#改ページ]

 寂寥


岸の柳は低くして
羊の群の繪にまがひ
野薔薇の幹は埋もれて
流るゝ砂に跡もなし
蓼科山《たでしなやま》の山なみの
麓をめぐる河水や
魚住む淵に沈みては
鴨の頭の深緑
花さく岩にせかれては
天の鼓の樂の音
さても水瀬はくちなはの
かうべをあげて奔るごと
白波高くわだつみに
流れて下る千曲川

あした炎をたゝかはし
ゆふべ煙をきそひてし
駿河にたてる富士の根も
今はさびしき日の影に
白く輝く墓のごと
はるかに沈む雲の外
これは信濃の空高く
今も烈しき火の柱
雨なす石を降らしては
みそらを焦す灰けぶり
神夢さめし天地の
ひらけそめにし昔より
常世につもる白雪は
今も無間の谷の底
湧きてあふるゝ紅の
血潮の池を目にみては
布引に住むはやぶさも
翼をかへす淺間山

あゝ北佐久の岡の裾
御牧が原の森の影
夢かけめぐる旅に寢て
安き一日もあらねばや
高根の上にあかあかと
燃ゆる炎をあふぐとき
み谷の底の青巖に
逆まく浪をのぞむとき
かしこにこゝに寂寥《さびしさ》の
その味ひはにがかりき

あな寂寥《さびしさ》や其の道は
獸の足の跡のみか
舞ひて見せたる大空の
鳥のゆくへのそれのみか
さてもためしの燈火に
若き心をうかゞへば
人の命の樹下蔭
花深く咲き花散りて
枝もたわゝの智慧の實を
味ひそめしきのふけふ
知らずばなにか旅の身に
人のなさけも薄からむ
知らずばなにか移る世に
假の契りもあだならむ
一つの石のつめたきも
萬の聲をこゝに聽き
一つの花のたのしきも
千々の涙をそこに觀る
あな寂寥《さびしさ》や吾胸の
小休《をやみ》もなきを思ひみば
あはれの外のあはれさも
智慧のさゝやくわざぞ是

かの深草の露の朝
かの象潟の雨の夕
またはカナンの野邊の春
またはデボンの岸の秋
世をわびびとの寢覺には
あはれ鶉の聲となり
うき旅人の宿りには
ほのかに合歡《ねむ》の花となり
羊を友のわらべには
日となり星の數となり
夢に添ひ寢の農夫には
はつかねずみとあらはれて
あるは形にあるは音《ね》に
色ににほひにかはるこそ
いつはり薄き寂寥《さびしさ》よ
いづれいましのわざならめ

さなりおもては冷やかに
いとつれなくも見ゆるより
深き心はあだし世の
人に知られぬ寂寥《さびしさ》よ
むかしいましが雪山の
佛の夢に見えしとき
かりに姿は花も葉も
根もかぎりなき藥王樹
むかしいましが※[#「さんずい+元」、第3水準1−86−54]湘の
水のほとりにあらはれて
楚に捨てられしあてびとの
熱き涙をぬぐふとき
かりにいましは長沙羅の
鄂渚《がくしょ》の岸に生ひいでて
ゆふべ悲しき秋風に
香ひを送る※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]《けい》の草
またはいましがパトモスの
離れ小島にあらはれて
歎き仆るゝひとり身の
冷たき夢をさますとき
かりに面《おもて》は照れる日や
首はゆふべの空の虹
衣はあやの雲を着て
足は二つの火の柱
默示をかたる言の葉は
高きらつぱの天の聲

思へばむかし北のはて
舟路侘しき佐渡が島
雲に戀しき天つ日の
光も薄く雪ふれば
毘藍の風は吹き落ちて
梵|音聲《おんじやう》を驚かし
岸うつ波は波羅密の
海潮音をとゞろかし
朝霜ふれば袖閉ぢて
衣は凍る鴛鴦の羽
夕霜ふれば現し身に
八つのさむさの寒古鳥
ましてや國の罪人の
安房の生れの栴陀羅《あま》が子を
あな寂寥《さびしさ》や寂寥《さびしさ》や
ひとりいましにあらずして
天にも地にも誰かまた
そのかなしみをあはれまむ

げに晝の夢夜の夢
旅の愁にやつれては
日も暖に花深き
空のかなたを慕ふとき
なやみのとげに責められて
袖に涙のかゝるとき
汲みて味ふ寂寥《さびしさ》の
にがき誠の一雫

秋の日遠しあしたにも
高きに登りゆふべにも
流れをつたひ獨りして
ふりさけ見れば鳥影の
天の鏡に舞ふかなた
思ひを閉す白雲の
浮べるかたを望めども
都は見えず寂寥《さびしさ》よ
來りてわれと共にかたりね
[#改ページ]

 千曲川旅情の歌


  一

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子《いうし》悲しむ
緑なす※[#「くさかんむり/繁」、第3水準1−91−43]※[#「くさかんむり/婁」、第3水準1−91−21]《はこべ》は萌えず
若草も藉くによしなし
しろがねの衾《ふすま》の岡邊
日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど
野に滿つる香《かをり》も知らず
淺くのみ春は霞みて
麥の色わづかに青し
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ

暮れ行けば淺間も見えず
歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の
岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飮みて
草枕しばし慰む

  二

昨日またかくてありけり
今日もまたかくてありなむ
この命なにを齷齪《あくせく》
明日をのみ思ひわづらふ

いくたびか榮枯の夢の
消え殘る谷に下りて
河波のいざよふ見れば
砂まじり水卷き歸る

嗚呼古城なにをか語り
岸の波なにをか答ふ
過《いに》し世を靜かに思へ
百年《もゝとせ》もきのふのごとし

千曲川柳霞みて
春淺く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて
この岸に愁《うれひ》を繋《つな》ぐ
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 鼠をあはれむ


星近く戸を照せども
戸に枕して人知らず
鼠古巣を出づれども
人夢さめず驚かず

情の海の淡路島
通ふ千鳥の聲絶えて
やじりを穿つ盜人の
寢息をはかる影もなし

長き尻尾をうちふりつ
小踊りしつゝ軒づたひ
煤のみ深き梁《うつばり》に
夜をうかがふ古鼠

光にいとひいとはれて
白齒もいとど冷やかに
竈の隅に忍びより
ながしに搜る鰺の骨

闇夜に物を透かし視て
暗きに遊ぶさまながら
なほ聲無きに疑ひて
影を懼れてきゝと鳴き鳴く
[#改ページ]

 勞働雜詠


 一 朝

朝はふたゝびこゝにあり
朝はわれらと共にあり
埋れよ眠行けよ夢
隱れよさらば小夜嵐

諸羽《もろは》うちふる鷄は
咽喉《のんど》の笛を吹き鳴らし
けふの命の戰鬪《たゝかひ》の
よそほひせよと叫ぶかな

 野に出でよ野に出でよ
 稻の穗は黄にみのりたり
 草鞋とく結《ゆ》へ鎌も執れ
 風に嘶く馬もやれ

雲に鞭《むち》うつ空の日は
語らず言はず聲なきも
人を勵ます其音は
野山に谷にあふれたり

流るゝ汗と膩《あぶら》との
落つるやいづこかの野邊に
名も無き賤のものゝふを
來りて護れ軍神《いくさがみ》

 野に出でよ野に出でよ
 稻の穗は黄にみのりたり
 草鞋とく結《ゆ》へ鎌も執れ
 風に嘶く馬もやれ

あゝ綾絹につゝまれて
爲すよしも無く寢ぬるより
薄き襤褸《つゞれ》はまとふとも
活きて起つこそをかしけれ

匍匐《はらば》ふ蟲の賤が身に
羽翼《つばさ》を惠むものや何
酒か涙か歎息《ためいき》か
迷か夢か皆なあらず

 野に出でよ野に出でよ
 稻の穗は黄にみのりたり
 草鞋とく結《ゆ》へ鎌も執れ
 風に嘶く馬もやれ

さながら土に繋がるゝ
重き鎖を解きいでて
いとど暗きに住む鬼の
笞《しもと》の責をいでむ時

口には朝の息を吹き
骨には若き血を纏ひ
胸に驕慢手に力
霜葉を履《ふ》みてとく來れ

 野に出でよ野に出でよ
 稻の穗は黄にみのりたり
 草鞋とく結《ゆ》へ鎌も執れ
 風に嘶く馬もやれ

 二 晝

誰か知るべき秋の葉の
落ちて樹の根の埋《うづ》むとき
重く聲無き石の下
清水溢れて流るとは

誰か知るべき小山田《をやまだ》の
稻穗のたわに實るとき
花なく香なき賤《しづ》の胸
生命《いのち》踊りて響くとは

 共に來て蒔き來て植ゑし
 田の面《も》に秋の風落ちて
 野邊の琥珀《こはく》を鳴らすかな
 刈り乾せ刈り乾せ稻の穗を

血潮は草に流さねど
力うちふり鍬をうち
天の風雨《あらし》に雷霆《いかづち》に
わが鬪《たゝか》ひの跡やこゝ

見よ日は高き青空の
端より端を弓として
今し父の矢母の矢の
光を降らす眞晝中

 共に來て蒔き來て植ゑし
 田の面《も》に秋の風落ちて
 野邊の琥珀《こはく》を鳴らすかな
 刈り乾せ刈り乾せ稻の穗を

左手《ゆんで》に稻を捉《つか》む時
右手《めて》に利鎌《とがま》を握る時
胸滿ちくれば火のごとく
骨と髓との燃ゆる時

土と塵埃《あくた》と泥の上《へ》に
汗と膩《あぶら》の落つる時
緑にまじる黄の莖に
烈しき息のかゝる時

 共に來て蒔き來て植ゑし
 田の面《も》に秋の風落ちて
 野邊の琥珀《こはく》を鳴らすかな
 刈り乾せ刈り乾せ稻の穗を

思へ名も無き賤《しづ》ながら
遠きに石を荷ふ身は
夏の白雨《ゆふだち》過ぐるごと
ほまれ短き夢ならじ

生命《いのち》の長き戰鬪《たゝかひ》は
こゝに音無し聲も無し
勝ちて桂の冠は
わづかに白き頬かぶり

 共に來て蒔き來て植ゑし
 田の面《も》に秋の風落ちて
 野邊の琥珀《こはく》を鳴らすかな
 刈り乾せ刈り
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