な/\の衾《ふすま》は濡れて
吾床は乾く間も無し
黒髮は霜に衰へ
若き身は歎きに老いぬ

春やなき無間の谷間
潮やなき紅蓮の岸邊
憔悴《うらがれ》の死灰の身には
熱き火の燃ゆる罪のみ

銀《しろかね》の臺《うてな》も碎け
戀の矢も朽ちて行く世に
いつまでか骨に刻みて
時しらず活《い》くる罪かも

空の鷲われに來よとや
なにかせむ自在なき身は
天の馬われに來よとや
なにかせむ鐵鎖《くさり》ある身は

いかづちの火を吹くごとく
この痛み胸に踊れり
なかなかに罪の住家《すみか》は
濃き陰の暗にこそあれ

いとほしむ人なき我ぞ
隱れむにものなき我ぞ
血に泣きて聲は呑むとも
寂寞《さびしさ》の裾こそよけれ

世を知らぬをさなき昔
香ににほふ妹《いも》を抱きて
すゝりなく恨みの日より
吾蟲は驕《たかぶ》るばかり

わがいのち戲《たはれ》の臺《うてな》
その惡を舞ふにやあらむ
わがこゝろ悲しき鏡
その夢を見るにやあらむ

人の世に羽を撃つ風雨《あらし》
天地《あめつち》に身《み》は捨小舟
今更に我をうみてし
亡き母も恨めしきかな

父いかに舊《もと》の山河
妻いかに遠《とほ》の村里
この道を忘れたまふや
この空を忘れたまふや

いかなれば歎きをすらむ
その父はわれを捨つるに
いかなれば忍びつ居らむ
その妻はわれを捨つるに

くろがねの窓に縋りて
故郷《ふるさと》の空を望めば
浮雲や遠く懸りて
履みなれし丘にさながら

さびしさの訪ひくる外に
おとなひも絶えてなかりし
吾窓に鳴く音を聽けば
人知れず涙し流る

鵯《ひよどり》よ翅を振りて
黄葉《もみぢば》の陰に歌ふか
幽囚《とらはれ》の笞《しもと》の責や
人の身は鳥にもしかじ

あゝ一葉《ひとは》枝に離れて
いづくにか漂ふやらむ
照れる日の光はあれど
わがたましひは暗くさまよふ
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 響りん/\音りん/\


響りん/\音りん/\
うちふりうちふる鈴高く
馬は蹄をふみしめて
故郷の山を出づるとき
その黒毛なす鬣《たてがみ》は
冷《すゞ》しき風に吹き亂れ
その紫の兩眼は
青雲遠く望むかな
枝の緑に袖觸れつ
あやしき鞍に跨りて
馬上に歌ふ一ふしは
げにや遊子の旅の情

あゝをさなくて國を出で
東の磯邊西の濱
さても繋がぬ舟のごと
夢長きこと二十年
たま/\ことし歸りきて
昔懷へばふるさとや
蔭を岡邊に尋ぬれば
松柏《しようはく》すでに折れ碎け
徑《みち》を川邊にもとむれば
野草は深く荒れにけり
菊は心を驚かし
蘭は思を傷ましむ
高きに登り草を藉き
惆悵として眺むれば
檜原《ひばら》に迷ふ雲落ちて
涙流れてかぎりなし

去《い》ね/\かゝる古里《ふるさと》は
ふたゝび言ふに足らじかし
あゝよしさらばけふよりは
日行き風吹き彩雲《あやぐも》の
あやにたなびくかなたをも
白波高く八百潮の
湧き立ちさわぐかなたをも
かしこの岡もこの山も
いづれ心の宿とせば
しげれる谷の野葡萄に
秋のみのりはとるがまゝ
深き林の黄葉《もみぢば》に
秋の光は履《ふ》むがまゝ

響りん/\音りん/\
うちふりうちふる鈴高く
馬は首《かうべ》をめぐらして
雲に嘶きいさむとき
かへりみすれば古里《ふるさと》の
檜原《ひばら》は目にも見えにけるかな
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 翼なければ


羽翼《つばさ》なければ繋がれて
朽ちはつべしとかねてしる
光なければ埋もれて
老いゆくべしとかねてしる

知る人もなき山蔭に
朽ちゆくことを厭はねば
牛飼ふ野邊の寂しさを
かくれがとこそ頼むなれ

埋《う》もるゝ花もありやとて
獨り戸に倚り眺むれば
ゆふべ空《むな》しく日は暮れて
牧場の草に春雨《はるさめ》のふる
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 罪人と名にも呼ばれむ


罪人《つみびと》と名にも呼ばれむ
罪人《つみびと》と名にも呼ばれむ
歸らじとかねて思へば
嗚呼涙さらば故郷《ふるさと》

駒とめて路の樹蔭に
あまたたびかへりみすれば
輝きて立てる白壁
さやかにも見えにけるかな

鬣《たてがみ》は風に吹かれて
吾駒の歩みも遲し
愁ひつゝ蹄をあげて
雲遠き都にむかふ

戰ひの世にしあなれば
野の草の露と知れれど
吾父の射る矢に立ちて
消えむとは思ひかけずよ

捨てよとや紙にもあらず
吾心燒くよしもなし
捨てよとや筆にもあらず
吾心折るよしもなし

そのねがひ親や古《ふ》りたる
このおもひ子や新しき
つくづくと父を思へば
吾袖は紅き血となる

靜息《やすみ》なく激《たぎ》つ胸には
柵《しがらみ》もなにかとゞめむ
洪水《おほみづ》の溢るゝごとく
海にまで入らではやまじ

はらからやさらば故郷《ふるさと》
去《い》ねよ去《い》ねよ去《い》ねよ吾駒
諸共《もろとも》に暗く寂しく
故《むかし》の園を捨てて行かまし
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 胡蝶の夢


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