日を絲垂れ暮す
流れ藻の青き葉蔭に
隱れ寄る魚かとばかり
手を延べて水を出でたる
うらわかき處女《をとめ》のひとり
名のれ名のれ奇《く》しき處女《をとめ》よ
わだつみに住める處女《をとめ》よ
思ひきや水の中にも
黒髮の魚のありとは
かの處女《をとめ》嘆きて言へる
われはこれ潮《うしほ》の兒なり
わだつみの神のむすめの
乙姫といふはわれなり
龍《たつ》の宮荒れなば荒れね
捨てて來し海へは入らじ
あゝ君の胸にのみこそ
けふよりは住むべかりけれ
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舟路
海にして響く艫の聲
水を撃つ音のよきかな
大空に雲は飄《たゞよ》ひ
潮分けて舟は行くなり
靜なる空に透かして
青波の深きを見れば
水底《みなそこ》やはてもしられず
流れ藻の浮きつ沈みつ
緑なす草のかげより
湧き出づる泉ならねど
おのづから滿ち來る汐は
海原のうちに溢れぬ
さながらに遠き白帆は
群をなす牧場《まきば》の羊
吹き送る風に飼はれて
わだつみの野邊を行くらむ
雲行けば舟も隨ひ
舟行けば雲もまた追ふ
空と水相合ふかなた
諸共にけふの泊《とまり》へ
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鳥なき里
鳥なき里の蝙蝠や
宗助《そうすけ》鍬をかたにかけ
幸助《かうすけ》網を手にもちて
山へ宗助海へ幸助
黄瓜花さき夕影に
蝉鳴くかなた桑の葉の
露にすゞしき山道を
海にうらやむ幸助のゆめ
磯菜|遠近《をちこち》砂の上に
舟干すかなた夏潮の
鰺藻に響く海の音を
山にうらやむ宗助のゆめ
かくもかはれば變る世や
幸助鍬をかたにかけ
宗助網を手にもちて
山へ宗助海へ幸助
霞にうつり霜に暮れ
たちまち過ぎぬ春と秋
のぞみは草の花のごと
砂に埋れて見るよしもなし
さながらそれも一時《ひととき》の
胸の青雲いづこぞや
かへりみすれば跡もなき
宗助のゆめ幸助のゆめ
ふたゝび百合はさきかへり
ふたゝび梅は青みけり
深き緑の樹の蔭を
迷うて歸る宗助幸助
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藪入
上
朝淺草を立ちいでて
かの深川を望むかな
片影|冷《すゞ》しわれは今
こひしき家に歸るなり
籠の雀のけふ一日《ひとひ》
いとまたまはる藪入や
思ふまゝなる吾身こそ
空飛ぶ鳥に似たりけれ
大川端を來て見れば
帶は淺黄の染模樣
うしろ姿の小走りも
うれしきわれに同じ身か
柳の並樹暗くして
墨田の岸のふかみどり
漁《すなど》り舟の艫の音は
靜かに波にひゞくかな
白帆をわたる風は來て
鬢の井筒《ゐづゝ》の香を拂ひ
花あつまれる浮草は
われに添ひつゝ流れけり
潮わきかへる品川の
沖のかなたに行く水や
思ひは同じかはしもの
わがなつかしの深川の宿
下
その名ばかりの鮨つけて
やがて一日《ひとひ》は暮れにけり
いとまごひして見かへれば
蚊遣《かやり》に薄き母の影
あゆみは重し愁ひつゝ
岸邊を行きて吾宿の
今のありさま忍ぶにも
忍ぶにあまる宿世《すぐせ》かな
家をこゝろに浮ぶれば
夢も冷たき古簀子《ふるすのこ》
西日悲しき土壁《つちかべ》の
まばら朽ちたる裏住居
南の廂《ひさし》傾きて
垣に短かき草箒
破《や》れし戸に倚る夏菊の
人に昔を語り顏
風吹くあした雨の夜半《よは》
すこしは世をも知りそめて
むかしのまゝの身ならねど
かゝる思ひは今ぞ知る
身を世を思ひなげきつゝ
流れに添うてあゆめばや
今の心のさみしさに
似るものもなき眺めかな
夕日さながら畫のごとく
岸の柳にうつろひて
汐みちくれば水禽の
影ほのかなり隅田川
茶舟を下す舟人の
聲|遠近《をちこち》に聞えけり
水をながめてたゝずめば
深川あたり迷ふ夕雲
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惡夢
少年の昔よりかりそめに相知れるなにがし、獄に繋がるゝことこゝに三とせあまりなりしが、はからざりき飛報かれの凶音を傳へぬ。今春獄吏に導かれて、かれを巣鴨の病床に訪ひしは、舊知相見るの最後にてありき、かれ學あり、才あり、西の國の言葉にも通じ、宗教の旨をも味はひ知り、おほかたの藝能にもつたなからず、人にも侮られまじき程の品かたちは持てりしに、其半生を思ひやれば實に慘苦と落魄との連鎖とも言ふべかりき。かれは春の日の長閑に暖かなる家庭に生ひたちて、希望と幸福とを一身に荷ひたりしかど、やがて獄窓に呻吟せしの日は人生流離の極みを盡したる後なりき。あはれむべし、死と狂と罪とを除きて他にかれの行くべき道とてはあらざりしなり。われは今、かれが惡夢を憐むの餘り、一篇の蕪辭囚人の愁ひをとりて、みだりに花鳥の韻事を穢す、罪の受くべきはもとよりわが期する所なり。
其耳はいづこにありや
其胸はいづこにありや
激《たぎ》り落つ愁の思
この心誰に告ぐべき
秋蠅の窓に殘りて
日の影に飛びかふごとく
あぢきなき牢獄《ひとや》のなかに
伏して寢ねまたも目さめぬ
夜《よ》
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