乾せ稻の穗を

 三 暮

揚げよ勝鬨《かちどき》手を延べて
稻葉を高くふりかざせ
日暮れ勞《つか》れて道の邊に
倒《たふ》るゝ人よとく歸れ
彩雲《あやぐも》や
落つる日や
行く道すがら眺むれば
秋天高き夕まぐれ
共に蒔き
共に植ゑ
共に稻穗を刈り乾して
歌うて歸る今の身に
ことしの夏を
かへりみすれば
嗚呼わが魂《たま》は
わなゝきふるふ
この日怖れをかの日に傳へ
この夜望みをかの夜に繋ぎ
門に立ち
野邊に行き
ある時は風高くして
青草長き谷の影
雲に嵐に稻妻に
行先《ゆくて》も暗く聲を呑み
ある時は夏寒くして
山の鳩啼く森の下
たまたま虹に夕映《ゆふばえ》に
末のみのりを祈りてき
それは逝き
これは來て
餓と涙と送りてし
同じ自然の業《わざ》ながら
今は思ひのなぐさめに
光をはなつ秋の星
あゝ勇みつゝ踊りつゝ
諸手《もろて》をうちて笑ひつゝ
樹下《こした》の墓を横ぎりて
家路に通ふ森の道
眠る聖《ひじり》も盜賊《ぬすびと》も
皆な土くれの苔|一重《ひとへ》
霧立つ空に入相の
精舍の鐘の響く時
あゝ驕慢と歡喜《よろこび》と
力を息に吹き入れて
勝ちて歸るの勢に
揚げよ樂しき秋の歌
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 爐邊雜興
   散文にてつくれる即興詩

あら荒くれたる賤の山住や顏も黒し手も黒しすごすごと林の中を歸る藁草履の土にまみれたるよ

こゝには五十路六十路を經つつまだ海知らぬ人々ぞ多き

炭燒の烟をながめつゝ世の移り變るも知らで谷陰にぞ住める

蒲公英《たんぽぽ》の黄に蕗の花の白きを踏みつゝ慣れし其足何ぞ野獸の如き

岡のべに通ふ路には野苺の實を垂るゝあり摘みて舌うちして年を經にけり

和布賣《わかめうり》の越後の女三々五々群をなして來《きた》る呼びて窓に倚りて海の藻を買ふぞゆかしき

大豆を賣りて皿の上に載せたる鹽鮭の肉鹽鮭何の磯の香もなき

年々の暦と共に壁に煤けたる錦繪を見れば海ありき廣重の筆なりき

爺《ぢゞ》は波を知らず婆《ばゞ》は潮の音を知らず孫は千鳥を鷄の雛かとぞ思ふ

たまたま伊勢詣のしるしにとて送られし貝の一ひらを見れば大わだつみのよろづの波を彫《きざ》めるとぞ言ひし言の葉こそ思ひいでらるれ

品川の沖によるといふなる海苔の新しきは先づ棚の佛にまゐらせて山家にありて遠く海草の香《か》をかぐとぞいふばかりなる
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 黄昏


つと立ちよれば垣根には
露草の花さきにけり
さまよひくれば夕雲や
これぞこひしき門邊なる

瓦の屋根に烏啼き
烏歸りて日は暮れぬ
おとづれもせず去《い》にもせで
螢と共にこゝをあちこち
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 枝うちかはす梅と梅


枝うちかはす梅と梅
梅の葉かげにそのむかし
鷄《とり》は鷄《とり》とし並び食ひ
われは君とし遊びてき

空風吹けば雲離れ
別れいざよふ西東
青葉は枝に契るとも
緑は永くとゞまらじ

水去り歸る手をのべて
誰れか流れをとゞむべき
行くにまかせよ嗚呼さらば
また相見むと願ひしか

遠く別れてかぞふれば
かさねて長き秋の夢
願ひはあれど陶磁《すゑもの》の
くだけて時を傷《いた》みけり

わが髮長く生ひいでて
額の汗を覆ふとも
甲斐なく珠《たま》を抱きては
罪多かりし草枕

雲に浮びて立ちかへり
都の夏にきて見れば
むかしながらのみどり葉は
蔭いや深くなれるかな

わかれを思ひ逢瀬をば
君とし今やかたらふに
二人すわりし青草は
熱き涙にぬれにけり
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 めぐり逢ふ君やいくたび


めぐり逢ふ君やいくたび
あぢきなき夜を日にかへす
吾命|暗《やみ》の谷間も
君あれば戀のあけぼの

樹の枝に琴は懸けねど
朝風の來て彈《ひ》くごとく
面影に君はうつりて
吾胸を靜かに渡る

雲迷ふ身のわづらひも
紅の色に微笑《ほゝゑ》み
流れつゝ冷《ひ》ゆる涙も
いと熱き思を宿す

知らざりし道の開けて
大空は今光なり
もろともにしばしたゝずみ
新しき眺めに入らむ
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 あゝさなり君のごとくに


あゝさなり君のごとくに
何かまた優しかるべき
歸り來てこがれ侘ぶなり
ねがはくは開けこの戸を

ひとたびは君を見棄てて
世に迷ふ羊なりきよ
あぢきなき石を枕に
思ひ知る君が牧場《まきば》を

樂しきはうらぶれ暮し
泉なき砂に伏す時
青草の追懷《おもひで》ばかり
悲しき日樂しきはなし

悲しきはふたゝび歸り
緑なす野邊を見る時
飄泊《さまよひ》の追懷《おもひで》ばかり
樂しき日悲しきはなし

その笛を今は頼まむ
その胸にわれは息《いこ》はむ
君ならで誰か飼ふべき
天地《あめつち》に迷ふ羊を
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 思より思をたどり


思より思をたどり
樹下《こした》より樹下《こした》をつたひ
獨りして遲く歩めば
月|今夜《こよひ》幽かに照らす

おぼつかな春のかすみに
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