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 千曲川旅情の歌


  一

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子《いうし》悲しむ
緑なす※[#「くさかんむり/繁」、第3水準1−91−43]※[#「くさかんむり/婁」、第3水準1−91−21]《はこべ》は萌えず
若草も藉くによしなし
しろがねの衾《ふすま》の岡邊
日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど
野に滿つる香《かをり》も知らず
淺くのみ春は霞みて
麥の色わづかに青し
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ

暮れ行けば淺間も見えず
歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の
岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飮みて
草枕しばし慰む

  二

昨日またかくてありけり
今日もまたかくてありなむ
この命なにを齷齪《あくせく》
明日をのみ思ひわづらふ

いくたびか榮枯の夢の
消え殘る谷に下りて
河波のいざよふ見れば
砂まじり水卷き歸る

嗚呼古城なにをか語り
岸の波なにをか答ふ
過《いに》し世を靜かに思へ
百年《もゝとせ》もきのふのごとし

千曲川柳霞みて
春淺く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて
この岸に愁《うれひ》を繋《つな》ぐ
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 鼠をあはれむ


星近く戸を照せども
戸に枕して人知らず
鼠古巣を出づれども
人夢さめず驚かず

情の海の淡路島
通ふ千鳥の聲絶えて
やじりを穿つ盜人の
寢息をはかる影もなし

長き尻尾をうちふりつ
小踊りしつゝ軒づたひ
煤のみ深き梁《うつばり》に
夜をうかがふ古鼠

光にいとひいとはれて
白齒もいとど冷やかに
竈の隅に忍びより
ながしに搜る鰺の骨

闇夜に物を透かし視て
暗きに遊ぶさまながら
なほ聲無きに疑ひて
影を懼れてきゝと鳴き鳴く
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 勞働雜詠


 一 朝

朝はふたゝびこゝにあり
朝はわれらと共にあり
埋れよ眠行けよ夢
隱れよさらば小夜嵐

諸羽《もろは》うちふる鷄は
咽喉《のんど》の笛を吹き鳴らし
けふの命の戰鬪《たゝかひ》の
よそほひせよと叫ぶかな

 野に出でよ野に出でよ
 稻の穗は黄にみのりたり
 草鞋とく結《ゆ》へ鎌も執れ
 風に嘶く馬もやれ

雲に鞭《むち》うつ空の日は
語らず言はず聲なきも
人を勵ます其音は
野山に谷にあふれたり

流るゝ汗と膩《あぶら》との
落つるやいづこかの野邊に
名も無き賤のものゝふを
來りて護れ軍神《いくさがみ》

 野に出でよ野に出でよ
 稻の穗は黄にみのりたり
 草鞋とく結《ゆ》へ鎌も執れ
 風に嘶く馬もやれ

あゝ綾絹につゝまれて
爲すよしも無く寢ぬるより
薄き襤褸《つゞれ》はまとふとも
活きて起つこそをかしけれ

匍匐《はらば》ふ蟲の賤が身に
羽翼《つばさ》を惠むものや何
酒か涙か歎息《ためいき》か
迷か夢か皆なあらず

 野に出でよ野に出でよ
 稻の穗は黄にみのりたり
 草鞋とく結《ゆ》へ鎌も執れ
 風に嘶く馬もやれ

さながら土に繋がるゝ
重き鎖を解きいでて
いとど暗きに住む鬼の
笞《しもと》の責をいでむ時

口には朝の息を吹き
骨には若き血を纏ひ
胸に驕慢手に力
霜葉を履《ふ》みてとく來れ

 野に出でよ野に出でよ
 稻の穗は黄にみのりたり
 草鞋とく結《ゆ》へ鎌も執れ
 風に嘶く馬もやれ

 二 晝

誰か知るべき秋の葉の
落ちて樹の根の埋《うづ》むとき
重く聲無き石の下
清水溢れて流るとは

誰か知るべき小山田《をやまだ》の
稻穗のたわに實るとき
花なく香なき賤《しづ》の胸
生命《いのち》踊りて響くとは

 共に來て蒔き來て植ゑし
 田の面《も》に秋の風落ちて
 野邊の琥珀《こはく》を鳴らすかな
 刈り乾せ刈り乾せ稻の穗を

血潮は草に流さねど
力うちふり鍬をうち
天の風雨《あらし》に雷霆《いかづち》に
わが鬪《たゝか》ひの跡やこゝ

見よ日は高き青空の
端より端を弓として
今し父の矢母の矢の
光を降らす眞晝中

 共に來て蒔き來て植ゑし
 田の面《も》に秋の風落ちて
 野邊の琥珀《こはく》を鳴らすかな
 刈り乾せ刈り乾せ稻の穗を

左手《ゆんで》に稻を捉《つか》む時
右手《めて》に利鎌《とがま》を握る時
胸滿ちくれば火のごとく
骨と髓との燃ゆる時

土と塵埃《あくた》と泥の上《へ》に
汗と膩《あぶら》の落つる時
緑にまじる黄の莖に
烈しき息のかゝる時

 共に來て蒔き來て植ゑし
 田の面《も》に秋の風落ちて
 野邊の琥珀《こはく》を鳴らすかな
 刈り乾せ刈り乾せ稻の穗を

思へ名も無き賤《しづ》ながら
遠きに石を荷ふ身は
夏の白雨《ゆふだち》過ぐるごと
ほまれ短き夢ならじ

生命《いのち》の長き戰鬪《たゝかひ》は
こゝに音無し聲も無し
勝ちて桂の冠は
わづかに白き頬かぶり

 共に來て蒔き來て植ゑし
 田の面《も》に秋の風落ちて
 野邊の琥珀《こはく》を鳴らすかな
 刈り乾せ刈り
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