艫の音は
靜かに波にひゞくかな

白帆をわたる風は來て
鬢の井筒《ゐづゝ》の香を拂ひ
花あつまれる浮草は
われに添ひつゝ流れけり

潮わきかへる品川の
沖のかなたに行く水や
思ひは同じかはしもの

わがなつかしの深川の宿

  下
その名ばかりの鮨つけて
やがて一日《ひとひ》は暮れにけり
いとまごひして見かへれば
蚊遣《かやり》に薄き母の影

あゆみは重し愁ひつゝ
岸邊を行きて吾宿の
今のありさま忍ぶにも
忍ぶにあまる宿世《すぐせ》かな

家をこゝろに浮ぶれば
夢も冷たき古簀子《ふるすのこ》
西日悲しき土壁《つちかべ》の
まばら朽ちたる裏住居

南の廂《ひさし》傾きて
垣に短かき草箒
破《や》れし戸に倚る夏菊の
人に昔を語り顏

風吹くあした雨の夜半《よは》
すこしは世をも知りそめて
むかしのまゝの身ならねど
かゝる思ひは今ぞ知る

身を世を思ひなげきつゝ
流れに添うてあゆめばや
今の心のさみしさに
似るものもなき眺めかな

夕日さながら畫のごとく
岸の柳にうつろひて
汐みちくれば水禽の
影ほのかなり隅田川

茶舟を下す舟人の
聲|遠近《をちこち》に聞えけり
水をながめてたゝずめば
深川あたり迷ふ夕雲
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 惡夢


少年の昔よりかりそめに相知れるなにがし、獄に繋がるゝことこゝに三とせあまりなりしが、はからざりき飛報かれの凶音を傳へぬ。今春獄吏に導かれて、かれを巣鴨の病床に訪ひしは、舊知相見るの最後にてありき、かれ學あり、才あり、西の國の言葉にも通じ、宗教の旨をも味はひ知り、おほかたの藝能にもつたなからず、人にも侮られまじき程の品かたちは持てりしに、其半生を思ひやれば實に慘苦と落魄との連鎖とも言ふべかりき。かれは春の日の長閑に暖かなる家庭に生ひたちて、希望と幸福とを一身に荷ひたりしかど、やがて獄窓に呻吟せしの日は人生流離の極みを盡したる後なりき。あはれむべし、死と狂と罪とを除きて他にかれの行くべき道とてはあらざりしなり。われは今、かれが惡夢を憐むの餘り、一篇の蕪辭囚人の愁ひをとりて、みだりに花鳥の韻事を穢す、罪の受くべきはもとよりわが期する所なり。


其耳はいづこにありや
其胸はいづこにありや
激《たぎ》り落つ愁の思
この心誰に告ぐべき

秋蠅の窓に殘りて
日の影に飛びかふごとく
あぢきなき牢獄《ひとや》のなかに
伏して寢ねまたも目さめぬ

夜《よ》
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