潮《うしほ》を照らす篝火《かゞりび》の
きらめくかたを窺へば
松《まつ》の火あかく燃ゆれども
魚行くかげは見えわかず
流れは急《はや》しふなべりに
觸れてかつ鳴る夜《よる》の浪《なみ》

  二

またゝくひまに風吹きて
舞ひ起《た》つ雲をたとふれば
戰《いくさ》に臨むますらをの
あるは鉦《かね》うち貝を吹き
あるは太刀《たち》佩《は》き劍《つるぎ》執り
弓矢《ゆみや》を持つに似たりけり

光は離れ星隱れ
みそらの花はちりうせぬ
彩《あや》美《うるは》しき卷物《まきもの》を
高く舒《の》べたる大空《おほそら》は
みるまに暗く覆はれて
目にすさまじく變りけり

聞けばはるかに萬軍《ばんぐん》の
鯨波《とき》のひゞきにうちまぜて
陣螺《ぢんら》の音色《ねいろ》ほがらかに
野《の》の空《そら》高く吹けるごと
闇《くら》き潮《うしほ》の音のうち
いと新《あたら》しき聲すなり

我《われ》あまたたび海にきて
風吹き起るをりをりの
波の響に慣れしかど
かゝる清《すゞ》しき音《ね》をたてて
奇《く》しき魔《ま》の吹く角《かく》かとぞ
うたがはるゝは聞かざりき

こゝろせよかしはらからよ
な恐れそと叫ぶうち
あるはけはしき青山《あをやま》を
凌《しの》ぐにまがふ波の上《うへ》
あるは千尋《ちひろ》の谷深く
落つるにまがふ濤《なみ》の影《かげ》

戰《たゝか》ひ進むものゝふの
劍《つるぎ》の霜を拂ふごと
溢るゝばかり奮《ふる》ひ立ち
潮《うしほ》を撃ちて漕ぎくれば
梁《やな》はふたりの盾《たて》にして
柁《かぢ》は鋭《するど》き刃《やいば》なり

たとへば波の西風《にしかぜ》の
梢をふるひふるごとく
舟は枯れゆく秋の葉の
枝に離れて散るごとし
帆檣《ほばしら》なかば折れ碎け
篝《かゞり》は海に漂《たゞよ》ひぬ

哀《かな》しや狂《くる》ふ大波《おほなみ》の
舟うごかすと見るうちに
櫓《ろ》をうしなひしはらからは
げに消えやすき白露《しらつゆ》の
落ちてはかなくなれるごと
海の藻屑《もくづ》とかはりけり

あゝ思のみはやれども
眼《まなこ》の前のおどろきは
劍《つるぎ》となりて胸を刺《さ》し
千々《ちゞ》に力を碎《くだ》くとも
怒りて高き逆波《さかなみ》は
猛《たけ》き心を傷《いた》ましむ

命運《さだめ》よなにの戲《たはむ》れぞ
人の命は春の夜の
夢とやげにも夢ならば
いとど悲しき
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