《みづ》靜《しづ》かなる江戸川の
ながれの岸にうまれいで
岸の櫻の花影《はなかげ》に
われは處女《をとめ》[#ルビの「をとめ」は底本では「おとめ」]となりにけり

都鳥《みやこどり》浮《う》く大川《おほかは》に
流れてそゝぐ川添《かはぞひ》の
白菫《しろすみれ》さく若草《わかぐさ》に
夢多かりし吾身かな

雲むらさきの九重《こゝのへ》の
大宮内につかへして
清涼殿《せいりやうでん》の春の夜《よ》の
月の光に照らされつ

雲を彫《ちりば》め濤《なみ》を刻《ほ》り
霞をうかべ日をまねく
玉の臺《うてな》の欄干《おばしま》に
かゝるゆふべの春の雨

さばかり高き人の世の
耀《かゞや》くさまを目にも見て
ときめきたまふさまざまの
ひとのころもの香《か》をかげり

きらめき初《そ》むる曉星《あかぼし》の
あしたの空に動くごと
あたりの光きゆるまで
さかえの人のさまも見き

天《あま》つみそらを渡る日の
影かたぶけるごとくにて
名《な》の夕暮《ゆふぐれ》に消えて行く
秀《ひい》でし人の末路《はて》も見き

春しづかなる御園生《みそのふ》の
花に隱れて人を哭《な》き
秋のひかりの窓に倚り
夕雲《ゆふぐも》とほき友を戀《こ》ふ

ひとりの姉をうしなひて
大宮内の門《かど》を出で
けふ江戸川に來《き》て見れば
秋はさみしきながめかな

櫻の霜葉《しもは》黄《き》に落ちて
ゆきてかへらぬ江戸川や
流れゆく水|靜《しづか》にて
あゆみは遲きわがおもひ

おのれも知らず世を經《ふ》れば
若き命《いのち》に堪へかねて
岸のほとりの草を藉《し》き
微笑《ほゝゑ》みて泣く吾身かな
[#改ページ]

 おきぬ


みそらをかける猛鷲《あらわし》の
人の處女《をとめ》の身に落ちて
花の姿に宿《やど》かれば
風雨《あらし》に渇《かわ》き雲に饑《う》ゑ
天《あま》翔《かけ》るべき術《すべ》をのみ
願ふ心のなかれとて
黒髮《くろかみ》長き吾身こそ
うまれながらの盲目《めしひ》なれ

芙蓉を前《さき》の身とすれば
泪《なみだ》は秋の花の露
小琴《をごと》を前《さき》の身とすれば
愁《うれひ》は細き糸《いと》の音《おと》
いま前《さき》の世は鷲の身の
處女《をとめ》にあまる羽翼《つばさ》かな

あゝあるときは吾心
あらゆるものをなげうちて
世はあぢきなき淺茅生《あさぢふ》の
茂《しげ》れる宿《やど》と思ひなし
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