モに、さうばかりとも思はれない。

 些細なことがわたしたちを慰める、何故かなら些細なことがわたしたちを傷ませるからとやら。さういふわたしなぞも、些細なことに笑へたものだ。信州の山の上に七年の月日を送つた頃、長野でのクリスマスの晩に招かれて、燈火の泄れる教會堂へと案内される途中に、年若な牧師夫人が、二度も三度も雪に滑つて轉ぶ音を聞いた時。ずつと以前に仙臺への旅をして荒濱の方で鳴る海の音を下宿の窓に聞きつけた頃、その下宿の田舍娘から自分のアスの太いことを仙臺訛で笑はれて見ると、それが自分の長い放浪の結果であつたと初めて氣がついた時。ちよつと思ひ出して見たばかりでも、實に些細なことに笑ふことの出來た過去の自分が胸に浮んで來る。そして周圍にあつた友人等と同じやうに、自分等の性情を伸ばして行くことが出來たやうな氣がする。

 西洋の人に言はせると、一體に東洋人は笑はない、だから氣心が知りにくいといふ話を聞いたこともある。併しわたしたちの先祖からして、決して笑を解さない人達ではない。頬骨の高く鼻の低い『おかめ』の面の福々しいものから、農業時代の豐饒を祝福するかのやうな『翁』の面の氣高く老いさびた
前へ 次へ
全195ページ中47ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング