屋なれば)、厄介ながら頼みたきよし申し候につき、至て兩爲メと相成り候やと存じ、引き請け申し候。尤も、日柄見合せ、遣はさるべきやう申し遣はし候。(文久三年一月十八日)
右につき、二十四日に、五兵衞伜同道にて參り、兩三年も世話を頼むとあり。赤飯、さかな、柿など土産あり。』
[#ここで字下げ終わり]
 これを見ると、大黒屋日記の筆者は手習ひ子なぞをも教へたと見える。當時のお家流をよく書き、狂歌狂句の一通りは心得てゐた町人と見えて、物の捉へ方や記述する筆づかひにもなか/\性格が面白く出てゐる。
 この日記の筆者は大脇信興といひ、通稱を兵右衞門といふ。わたしの郷里の人で、今の大黒屋の當主大脇文平君の曾祖父に當る。この隱居は以前のわたしの家の上隣りに住み、郷里馬籠の宿場時代には宿役人の年寄役及び問屋後見として、わたしの祖父とは日夕相往來した間柄であつたらしい。この隱居の一番日記は文政九年、同じく十年、十一年の三ヶ年間の日記帳より成るもので、それをつけはじめたのは三十歳の頃かと思はれる。さういふ日記帳が二十七番までも文平君の家に仕舞つてあつた。最初のうちはわたしもあの隱居が二十七番の日記を殘したこと
前へ 次へ
全195ページ中152ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング