竄ツて來た。さういふ中で、町へ來る冬の雨の音ほど、このわたしの心を落ちつかせるものはない。その音を聽くたびに、わたしはいろ/\なことを思ひ出す。平素は殆ど忘れてゐたやうなことまで思ひ出す。そして、この生を耐へる氣になる。

[#天から4字下げ]人々をしぐれよ宿は寒くとも
 南の障子に近く行つてこの昔の人の句を口ずさんで見る。雪景色が好きでよく描いたらしい王維の繪畫にあらはしてあるやうな、あの寒い遠さを一緒に胸に浮かべて見る。しぐれながらも人を訪ふものがあり、雪に濡れながらも道を行くものがある。さういふ思ひを傳へるものは、句にしても繪畫にしても、すべて親しい。それが冬の姿であれ風情であれ、底に燃える焔を形にあらはして見せて呉れるやうなものであるなら、猶々ありがたい。

        二

 昨年度において、私の心に引かれたものの一つは、ゲエテ百年祭を機會にあの詩人を囘顧する聲のかなり賑やかであつたことである。岩波書店で發行する雜誌『思想』のゲエテ研究號を初め、わたしは自分の手の屆くかぎり諸家の筆になるものを讀むのを樂しみにして、ゲエテの研究もこゝまで深められたかと想つて見た。その人が亡
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