キでに二階の部屋にも滿ちて來た。この一夏の間、わたしは例年の三分の一に當るほども自分の仕事をなし得ず、せめて煩はなかつただけでもありがたいと思へと人に言はれて、僅かに慰めるほどの日を送つて來たが、花はその間に二日休んだだけで、垣のどこかに眸《ひとみ》を見開かないといふ朝とてもなかつた。今朝も、わたしの家では、十八九輪もの眼のさめるやうなやつが互の小さな生命を競ひ合ふやうに咲いてゐる。これから追々と花も小さくなつて、秋深い空氣の中に咲き殘るのもまた捨てがたい風情があらう。

     このごろの日課

 海に山に暑さを避けようとする人も多い中で、わたしはこれまで殆んど避暑といふことに出掛けたことのないものの一人だ。夏の凌ぎがたいのは、むしろ梅雨明けのころで、それを通り越せばわたしたちのからだもいくらか暑さに慣れて來る。それに夏は自分の好きな季節でもあつて、暑くてもなんでも割合に仕事の出來るところから、この町中を離れる氣にならない。こゝろみに、このごろの日課を書きつけて見る。

 怠けものの體操。これは一名エキサアサイズ・オン・ゼ・ベッドで、半身づゝの極靜かな運動である。枕の上で寢ながら出來るところから、なまけものの體操の名がある。鷄の鳴聲を聞きつけるころに眼をさましてそのまま枕の上で運動にとりかゝる。末梢より中樞に及ぼし、あるひは中樞より末梢に及ぼす。約三十分ばかり。
 朝早く火鉢の火をつぎ鐵瓶の湯の沸くやうにして置いて、それから朝顏の根に水をそゝぎに行く。去年からわたしはこんな朝顏の培養をはじめたが、これは風雅でも洒落でもなく、隣家の高いトタン塀から來る烈しい日光の反射を防がうがための必要から思ひついたことであつた。でも、早曉の草の手入れは、そのことがすでに爽かで涼しい。地を割つて頭を持ち上げる貝割葉のころから一つとして同じものもないやうな朝顏の中には、最早三尺あまりも自然な蔓の姿を見せて、七月はじめの生氣を呼吸してゐるのもある。

 朝茶。小一時間ばかりの朝茶の時がわたしには一日の中の樂しい靜坐の時である。外國の作者の書いたものを見ると、朝早く屋外を一※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りして一時間ばかりを散歩の時にあて、それから歸つて來て自分でコーヒイを沸かし、いはゆるプッチ・デヂュネといふやつをとるやうな習慣の人もあつたやうであるが、しかし、仕事を控へての早朝の散歩もどんなものか。
 ずつと以前淺草新片町の方に住んだころ、わたしもよく夏の朝の散歩に出て隅田川の岸などを歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つたものだが、あのころは午前の十一時ごろから仕事にとりかゝつて、おもに午後に働いた。家のものの寢しずまる深夜のころまで机にむかつてゐて、どうかすると一番鷄の聲を聞いたこともある。ところが、このごろはおもに午前中を仕事にあてたいと思ふものだから、朝早くそこいらを歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]るとなると、いろ/\見つける物象も多いかはりに、どうも氣が散つて困る。やはり今のわたしには靜かにしてゐる方がいゝ。たまには家のものを連れ、月島の魚河岸の方まで出掛けて行つて、そこで探した鮮魚なぞを提げながら、朝飯前に歸つて來ることもあるが、そんなことはまづ例外だ。

 朝食。毎朝簡單に茶粥で濟ませる。一ころはオート・ミイルを試みたこともあつたが、どうしたものか町で賣る品も粗惡なものばかりになつて、だん/\自分の口には適しなくなつた。茶粥二椀、牛乳一合、その用ゐ方は殆んどオート・ミイルの場合と同じだ。これがまたわたしの好物の一つだ。奈良の方の寺では茶粥に里芋をまぜるといふ話をある人から聞いて、それも試みたことがあるが、すこし味が重くなるかと思ふ。野菜のスープに燒昆布を入れて造ることはわたしの思ひ付きだが、そんなものでもあれば朝の食事は一層樂しい。
 今のわたしに夏が好いといふことの一つは、日の長いといふことでもある。なるべくわたしは午前中に自分の仕事を濟ますやうにしてゐる。

     小半日
[#天から10字下げ](戸川秋骨君に誘はれて喜多氏方例會の席に小半日を送る)

 曾て山陰の旅に出掛けて、石見《いはみ》の國益田にある古い寺院の奧に、雪舟の遺した庭を訪ねたことがあつた。古大家の意匠を前にして、わたしはしばらく旅の時を送つて來た。近代の曙はまだそんなところに殘つて、私の眼前《めのまへ》に息づいてゐるやうであつた。しかもそこにある草木はみな新葉を着けてゐて、その古い庭の意匠と生々とした草木の新しさとの混じ合つたところから、わたしは言ふに言はれぬ深い感じに打たれたことを覺えてゐる。喜多氏方の例會に來て、その見物席に身を置いた時のわたしの感じがそれだ。その舞臺で演ぜらるゝことは近代の極早い頃から流れ傳はつた古
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