の話なぞもその一つだ。京都も今とは違つて、昔は魚に不自由したところであつたさうだが、若狹の方から商人のかついで來る魚にかぎつて、活き/\とした味を失はないのはどういふ譯かと、料理人仲間の噂に上つたとのこと。だん/\樣子をきいて見ると、若狹の商人が北陸の海邊から山越しに京都まで運んで來る魚荷の中には、かならず笹の葉が入れてあつて、そのために魚の味の落ちないことが判つたといふ。さすがに一つの道に精しい人達はおもしろいところへ眼をつけるものだと思つて、あの笹の葉の話は妙に忘れがたい。
深く眠るまでもない晝寢には、手近にある古い字書なぞを引きよせて枕のかはりとしても、それでも事は足りるやうなものだ。しかし横になる時の姿勢だけは、なるべく安らかにありたい。古代のギリシャ人は片足を長く延ばし、片足をすこし折りまげた寢像の彫刻を造つて、それで眠りを表現した。よく生きることを知つてゐた古代のギリシャ人は、よく眠ることをも心得たゐたと見える。
かつてフランスの旅にあつたころ、パリの郊外にペエル・ラセエズの墓地を訪ねたことがある。そこはフランスに名のある歴史的な人物やパリで客死したといふイギリスの詩人オスカア・ワイルドの墓などのあるところで、墓地としてもかなり廣い。岡の地勢に添うた樹木の多い區域が行く先に展けてゐるやうなところだつた。深く分け入るうちに古めかしく物錆びた一宇の堂の前へ出た。男と女の寢像がその堂のうちに靜かに置いてあつた。アベラアルとエロイズの墓だ。男は中世紀の哲學者であり神學者でありソルボンヌの先生であつたといはれるし、女は學問のある尼僧であつたといはれる。古く黒ずんだ堂の横手には、この人達は終生變ることのない精神的な愛情をかはしたといふことなぞが立派に書き掲げてあり、堂を取りまく鐵柵の中には何の花とも知らない草花があはれげに咲き亂れてゐたことを覺えてゐる。あれも晝寢の仲間かと思ひ出して見ると、あんなに天地に俯仰して恥ぢないやうな堂々とした寢像としてあらはされてゐるのも、どんなものかと思ふ。『戀ゆゑにそんな悲哀と苦惱とを得た』とフランスの詩人フランソア・※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ロンには歌はれ、死後には翼を比《なら》べた形を彫刻にまで造られて、それを戀とも哀傷ともされ、たゞ/\二人にあやかりたいやうな男や女の語り草となる。まことの人間の姿は尋ねるよしもない。いぢらしい人達だ。
年若いころのことであつた。わたしはある娘を知つてゐた。この娘まことに健康な人で、夏の晩なぞよく大の字なりに熟睡しては便所の方へ行くわたしの通り路を塞いでゐた。仕方なしに娘の上をまたいで通り過ぎたものだが、その人は何も知らなかつたことを覺えてゐる。こんなことはさう咎めるに當らない。娘のころに枕をはづして眠るぐらゐは有り勝ちなことで、それが反つて好い健康の證據ともなる。だん/\年をとるやうになれば、誰しも若いうちのやうなことはなくなつて來る。さういふ中でも、寢姿の好い人こそ、女の中の女と考へられなくもない。
戸も出ずに籠り暮してゐてしと/\降る雨の音なぞをきく時の晝寢は侘しく、語るにも友もない時の晝寢は寂しく、われとわが身をいたはる時の晝寢は甘い。寢るよりほかに分別のないやうなこともあつて、さういふ時の晝寢ほどまた苦いものもない。
[#天から4字下げ]酒飮めばいとゞ寢られぬ夜の雪
こんな句を殘した古人もあるが、さういふ眠りがたい夜にかぎつて自分は呼び茶をする。するとます/\寢られなくなる。このわたしが樂しみの一つは、さういふ翌日になつて家にある風呂の下なぞを焚きつけ、そこに一切を忘れることだ。心の落ちつかない日には、わたしは自分でくべた薪のぱち/\燃える音をきゝながら、狹い風呂場のかまどの前に時を送ることもすくなくない。
ある人へ
ある人への返事に。
『御手紙拜見しました。力はどうしたら得られるかとの御尋ねのやうですが、あのゲエテやトルストイのやうな人達でも先づ自分の持つものを粗末にしないところから出發したやうです。そして長い生涯の間には他と交換したものでもそれを自分のものにすることが出來て行つたやうです。君は明治以來のこの國の青年の弱味が歴史精神に缺けてゐたことだとお考へにはなりませんか。故岡倉覺三のごときはそれを持つてゐた稀な人でせう。只今白木屋に開催中の古書展覽會へ行けば「天心全集」三卷は手にも入りませうから、あゝいふものを探されて、熟讀三思せらるゝことを君にお勸めしたいと思ひます。』
雪の障子
この節すこし讀書する暇があつて、いろ/\な好い書物から毎日のやうに新しいことを學ぶ。町々はまだ春先の殘雪のために埋められ、とき/″\恐ろしげな地響きを立てゝ屋根から崩れ落ちる雪の音もするが、この雪に濡
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