驍ルどの者なぞ一向になく、彼が子供の時分に一分か二分の金を借りるにも隣宿の妻籠《つまご》か美濃の中津川邊でするくらゐのところで、中津川備前屋の親仁《おやぢ》伊左衞門なぞは師走《しはす》の月にでもなると馬籠下町の紋九郎方に來て十日あまりも滯在し、町中へ小貸しなどして、それで漸く宿内のものが年の暮の始末をしたやうなところであつた。隱居の咄《はなし》にはよくそのことが出た。さういふ土地柄で隱居は四人も子供があつたから、心勞も一通りでなく、それに馬籠は街道筋といひながら町並の家居も惡いところだから、どうかして家を建て直したら旅人の泊り客も多からうとの考へから、その經營に取りかゝつたが、さて、その建直しを成就しようとなると古金で六十六兩の借金が出來た。これは大借ではあるが、まだその頃は隱居も四十になるやならずのことであり、なにとぞして精出し、神佛に非禮な行ひもしなかつたら、志の成し遂げられないこともあるまいと考へ、子供をも路頭には立てまいとの念願から、更に隱居の奮發となつた。言つて見れば、山家での朝の草刈りも、青草を見かける頃から、九月、十月の霜をつかむまで、毎朝二度づゝは刈り、晝は人並に農業を勤め、晩は泊り客を第一にした。その間には、すこしづゝ米商ひもして、殊に八幡屋は蜂屋から分れた家ではあつたが、その元をたゞせば一旦打ち絶えた宿役人の家柄ででもあつたと見えて、年寄役をも勤めた。そんなところから隱居は出發して、漸く彼源十郎が少年と成つた頃にはすこしは勝手も※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り、ます/\隱居の精出したことは彼もすこしは見覺えてゐると言つてある。
 こんな境涯の中で、四人目の彼への心當てなぞは思ひもよらないことであつた。彼はそれを言つて見せて、それでも兄弟は追々と一人づゝ片付き、末子の彼までが町中に家を持つ迄の隱居の辛苦は、なか/\言葉にも筆にも盡しがたいものがあつたといふ。馬籠なぞでは、代々總領は親の仕來つたやうに、百姓は百姓、駕籠かきは駕籠かき、それも長男と生れたもののみが親の仕事を繼げるのであつて、次男からは十三四歳の頃より奉公し、二十四五歳にもなつて己が引き合ふ女房も出來る頃には、自前で漸く賃取り仕事にもありつくやうなものであるが、末には我が生地にも居られないで、後に雲助となつたものもこれ迄には數多くある。のみならず、親の心からは、相續の子よりも
前へ 次へ
全98ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング