ナ言つて見ても、純百姓の家に殘つてゐる古い記録はあまり見當らない。彼等にそんな暇がなかつたためかと言へば、さうばかりとは思はれない。農閑期といふものもある。彼等に文字がなかつたためかと言へば、これまた、さうばかりとは思はれない。彼等の中には百姓總代なり組頭なりとして、隨分宿村の相談にあづかり、相應に文字を解する人はゐた筈である。こんなに百姓が書いたものを殘さないといふは、全く彼等のたづさはる仕事の性質によることであらう。多くの百姓は僅かに古い小遣帳ぐらゐを殘し、その長い苦鬪の歴史をも、土に親しんで見た多年の經驗をも、或は老後の思ひ出をも、あまり筆にはしなかつたもののやうである。
 そこへ行くと、町人の中には隨分筆まめな人もある。わたしの郷里も今では全くの農村であるが、以前は東西交通の要路とも言ふべき街道筋に當つてゐたから、その驛路時代に三十歳の頃から七十二歳の晩年まで、四十年間殆んど一日も缺かさずにと言つていゝくらゐの日記を殘した町人もある。これは百姓と町人との生活の相違によることは勿論であるが、一つには彼等町人が帳場格子の前に坐り、帳面をくりひろげ、硯箱を引き寄せ、自然と筆に親しむ機會も多かつたところから來てゐよう。今から百四十餘年ほど前に、蜂谷源十郎の殘した覺書も、やはりさうした町人の手に成つたものの一つだ。
 もとより、これは一町人の覺書に過ぎない。然し源十郎がその子に宛てたもので、他人に見せるために書いたやうな性質のものではない。それだけ本當のことも出てゐて、徳川時代に於ける町人が私生活の奧も窺へるかと思ふ。半紙二つ折りの横綴の古帳に、事細かく、當時流行つた御家流の書體で達者に書きしるしてある。天保三年、源十郎五十歳の頃の覺書である。
 源十郎は先づその子に宛、先代の隱居のことを語つてゐる。八幡屋の普請をはじめたのは、その年から數へて二十五年前、すなはち寶暦七年のことで、當時隱居は六十五歳、二代目源十郎としての彼が二十五歳の時であつたと言ひ、それから土藏、米倉、小屋、その他の建物を造るためには五六年の間かゝつたが、それらを成就するまでの隱居の辛勞は日々しばらくも彼には忘れられないと語つて見せてある。
 この源十郎に言はせると、彼は兄弟四人の末子に生れた。もと/\馬籠《まごめ》(わたしの郷里)なぞは至つてひどいところで、古から困窮な宿であつたから、有徳者と言へ
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