。がすくない。自分の家の近くには深山といふ茶の老舖《しにせ》があつて、そこから來るものは日頃わたしの口に適してゐるので、試みに買置きの深山を混ぜて見た。どうだらう、實に良い風味がそこから浮んで來た。その時の老母の話に、茶には香にすぐれたものと、味にすぐれたものとの別がある。一體に暖國に産する茶は香氣は高くてもその割合に味に劣り、寒い地方に産する茶は香氣には乏しいがこまやかな味に富むといふ。この老母に言はせると、おそらく深山のやうな老舖で賣る茶は多年の經驗から、古葉に新葉をとりまぜ、いろ/\な地方で産するものを鹽梅《あんばい》し、それに茶の中の茶ともいふべき『おひした』(味素)を加味して、それらの適當な調合から香もあり味もある自園の特色を造り出してゐるのであらうとの話もあつた。
 この茶から、わたしは生一本のものが必ずしも自分等の口に適するものでないことを學んだ。生一本は尊い。しかしさういふものにかぎつて灰汁《あく》が強い。新葉の愛はもとより、古葉をおろそかにしないといふことが好い風味を見つける道であらう。鋭いものは挫《くじ》かねばならぬ。柔いものは大切にせねばならぬ。淡き、甘き、澁き、濃き、一つの茶碗に盛りきれないやうな茶の味がそこから生れて來る。
 頃日、太田君の著『芭蕉連句の根本解説』を折り/\あけて讀んで見た。芭蕉は本來、生一本で起つた人に相違ない。さもなくて『冬の日』、『曠野』、『ひさご』の境地から、あの『猿蓑』にまで突き拔け得る筈もない。しかし蕉門の諸詩人が遺した連句なるものを味つて見ると、芭蕉はじめ、去來、凡兆、杜國、史邦、野水なぞの俳諧が、なか/\たゞの生一本でないことを知る。

     大きな言葉と小さな言葉

 好い手紙を人から貰つた時ほどうれしいものはない。眞情の籠つた手紙は、ほんの無沙汰の見舞のやうなものでも好ましい。それが何度も讀み返して見たいやうな、こまかい心持までよくあらはされたものであれば、なほ/\好ましい。

 わたしたちが母の時代の人達は、今日の婦人のやうに手紙を書きかはすことも、あまりしなかつたやうに思はれる。わたしは少年時代に母の膝もとを離れて東京に遊學したものであるが、郷里にある母から手紙を貰つたことが殆んどなかつた。母からの便りと言へば、いつでも嫂《あによめ》が代筆してよこした。今日から考へると、母が子に送る手紙を書いたこ
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