州藩時代の作業のことに思ひ合せ、それを小谷狩とか大谷狩とか言ひならはして來たことにも思ひ合せて、あの御嶽山より流れ出る王瀧川その他に出て働く人達の役を、あるひはその役を勤める代りに金錢米穀等を納めさせられる家々のことを水役と言つたかといふ風に想像したこともあつた。七年もかゝつてさがして見た末に、それが傳馬役以外の雜役と解したら一番妥當であらうといふことになつた。この解釋は木曾出身の工學士遠藤於莵君を通して奈良井徳利屋の主人がわたしに答へて呉れたのであつた。過去を探らうとすると、一寸した一例がこんな場合に突き當る。尤も、分らないことは分らないなりに、讀者諸君には讀み過して貰つて、それでいゝ。わたしはその流儀だ。

 それにしても、『夜明け前』の中にはわたしの説明不充分で、書いてあることの意味が讀者諸君に通じかねるやうな箇處もすくなくはなからうと思ふ。第一部第六章の一節に、『馬は四分より一疋出す、人足は五分より一人出す』といふところがあるが、あれなぞも一ヶ年の石高百石を標準にすることを斷るべきであつたかも知れない。伊那の谷の方から木曾下四宿へ繼立てを應援し人馬を補充するために出た助郷といふものも、正徳二年の昔までは十六ヶ村であつたが、翌三年には二十八ヶ村に増した。といふのは、正徳三年に尾州公が徳川直屬の代官に代つて木曾福島の關所を預ることになり、したがつて街道筋の繼立てもにはかに頻繁になつたからであつた。それでも當時の伊那助郷は、百石につき人足は四人半、馬は一疋半の程度であつた。天保年度となると、人足だけでも百石につき十七人二分餘の激増を示してゐる。わたしは伊那村民と宿驛との關係にかけて、この助郷のことを重く見て書いた。そして、地方の百姓でも、町人でも、結局繋がるところは交通と深い關係にあることを感じた。

 中央公論誌上に年四囘づゝ自作の續稿を發表した折、その都度わたしは他郷の人には耳遠い地方語や、過去に流行しても今日では用ゐ方の異なつて來た言葉や、あるひはすでに死んだ言葉や、その他特殊な言葉を見つけることも多かつたが、それを取りいれて草稿を作る場合にも一々自註を附けては置かなかつた。讀んで見て呉れる方でも、その煩はしさには堪へなからうと思つたからである。第一部第三章の二節目の中にある小谷狩、大谷狩、それから木鼻、木尻の作業なぞの言葉も註なしにはどうであらう。

 木
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