ニを思ひ立たれた。これはトルストイが晩年に到達した教育事業の精神にも近い。その意味から、わたしは君が新しき出發を祝し、志操の堅きこと十年一日の如き君のためにこの應援の言葉を送るものである。

     世界文藝大辭典

 畏敬する吉江喬松君が世界文藝大辭典編輯の大きな事業も着々その工作を進め、今やその第一卷を刊行し、第二卷刊行の日もまた近きにあるであらうと聞く。これは東洋方面の文化の覺醒を期待して、世界のそれに合流せしむることの眼に見えない一つの港を造らうとするがごときものである。吉江君はその起工の始めに當り、多くの希望を抱いて出發せられたもののやうである。編輯者としての君が所謂『現實に徹して理想に向ひ、國民意識に徹して世界意識に伸展する力』とは則ちこれを造らうとする君の意圖を語るもので、そのために君の用意された比較研究と歸納實證の方法は、あたかも海波をせきとめるために築きあげた港の堤防に譬ふべきものであらうか。もしこれが無事に竣工されたあかつきには、凡ゆる種類の文藝思想藝術を載せた何百の船がこの港に碇泊すると言ひ盡すことも出來まい。雄大な氣象はおのづからそこに感ぜらるゝであらう。吉江君はこの世界文藝大辭典のはじめに序して、『我邦の文藝は今や世界文化の表面に第二の大きなルネエサンスを呼び來すべき重要な使命を持つて進展しつつあるのである』と言ひ、『その時機は徐々に近づきつゝあると感ずる』とも言つて、曾て東洋の宗教哲學思想藝術を集大成した我日本は更に第二の重要な綜合時期に邂逅しつゝあることを警告し、最も公平無私に世界文藝の現象を追究し得る立場に置かれてゐるものは現在われら日本人を措いて他にないとなし、その當然の責務を遂行することによつて文藝意識の高揚を計るこそ、目下の急務であると語つてゐる。おそらくこれを造るために今日まで費された努力、またこれを完成するまでの努力は莫大なものであらう。わたしは君が志をさかんなりとし、多くの讀者諸君もまたこの良い企てに協力せらるゝことを勸めたい。これは尋常一樣の辭典ではない。

     愛兒讀本

 最近に、わたしは昔の人の筆になつた『童蒙入學問』といふ本を開いて見て、すくなからず心に驚いたことがある。といふは、昔の人が子供の讀本にと書いて與へたのはこんなむつかしい言葉であつたかと思ふからであつた。わたしは又、それらの教へ草があまりに嚴
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