掛けたまえ。」
 と、自分は馴々敷《なれなれし》い調子で言った。男は自分の思惑を憚るかして、妙な顔して、ただもう悄然《しょんぼり》と震え乍ら立って居る。
「何しろ其は御困りでしょう。」と自分は言葉をつづけた。「僕の家では、君、斯ういう規則にして居る。何かしら為て来ない人には、決して物を上げないということにして居る。だって君、左様じゃないか。僕だって働かずには生きて居られないじゃないか。その汗を流して手に入れたものを、ただで他《ひと》に上げるということは出来ない。貰う方の人から言っても、ただ物を貰うという法はなかろう。」
 こう言い乍ら、自分は十銭銀貨一つ取出して、それを男の前に置いて、
「僕の家ばかりじゃない、何処の家へ行っても左様だろうと思うんだ。ただ呉れろと言われて快く出すものは無い。是から君が東京迄も行こうというのに、そんな方法《やりかた》で旅が出来るものか。だからさ、それを僕が君に忠告してやる。何か為《し》て、働いて、それから頼むという気を起したらば奈何《どう》かね。」
「はい。」と、男は額に手を宛てた。
「こんなことを言ったら、妙な人だと君は思うかも知れないが――」と自分は学
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