りに尋ねて行くという。はるばるの長旅、ここまでは辿り着いたが、途中で煩《わずら》った為に限りある路銀を費い尽して了った。道は遠し懐中《ふところ》には一文も無し、足は斯の通り脚気で腫れて歩行も自由には出来かねる。情があらば助力して呉れ。頼む。斯う真実を顔にあらわして嘆願するのであった。
「実は――まだ朝飯も食べませんような次第で。」
と、その男は附加《つけた》して言った。
この「朝飯も食べません」が自分の心を動かした。顔をあげて拝むような目付をしたその男の有様は、と見ると、体躯《からだ》の割に頭の大きな、下顎《おとがい》の円く長い、何となく人の好さそうな人物。日に焼けて、茶色になって、汗のすこし流れた其|痛々敷《いたいたし》い額の上には、たしかに落魄という烙印《やきがね》が押しあててあった。悲しい追憶《おもいで》の情は、其時、自分の胸を突いて湧き上って来た。自分も矢張その男と同じように、饑と疲労《つかれ》とで慄えたことを思出した。目的《あてど》もなく彷徨《さまよ》い歩いたことを思出した。恥を忘れて人の家の門に立った時は、思わず涙が頬をつたって流れたことを思出した。
「まあ君、そこへ腰掛けたまえ。」
と、自分は馴々敷《なれなれし》い調子で言った。男は自分の思惑を憚るかして、妙な顔して、ただもう悄然《しょんぼり》と震え乍ら立って居る。
「何しろ其は御困りでしょう。」と自分は言葉をつづけた。「僕の家では、君、斯ういう規則にして居る。何かしら為て来ない人には、決して物を上げないということにして居る。だって君、左様じゃないか。僕だって働かずには生きて居られないじゃないか。その汗を流して手に入れたものを、ただで他《ひと》に上げるということは出来ない。貰う方の人から言っても、ただ物を貰うという法はなかろう。」
こう言い乍ら、自分は十銭銀貨一つ取出して、それを男の前に置いて、
「僕の家ばかりじゃない、何処の家へ行っても左様だろうと思うんだ。ただ呉れろと言われて快く出すものは無い。是から君が東京迄も行こうというのに、そんな方法《やりかた》で旅が出来るものか。だからさ、それを僕が君に忠告してやる。何か為《し》て、働いて、それから頼むという気を起したらば奈何《どう》かね。」
「はい。」と、男は額に手を宛てた。
「こんなことを言ったら、妙な人だと君は思うかも知れないが――」と自分は学
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