りに継母でも誰でも関《かま》わず叱《しか》り飛ばすという気性だ。総領の山本さんには、その真似《まね》は出来なかった。こういう妹の許《ところ》へ、相応な肩書のある医者の養子が来た。腹違いの一番|年長《うえ》の弟、これも今では有望な医学士だ。山本さんだけは別物で、どうしても父の業を継ぐ気が無かった。
山本さんが家を出て朝鮮から満洲の方へ行って了ったのは、丁度彼が二十五の年だ。二度目に南清を指《さ》して出掛けるまでには、実に彼は種々雑多なことをやった。通弁にも成り、学校の教員にも成り、新聞の通信員にも成り、貿易商とも成った。書家の真似までした。前後十二年というものは、海の彼方《むこう》で送った。御承知の通り、外国へ行って来るとか、戦地でも踏んで来るとかすれば、大概な人は放縦な生活に慣れて来る。気の弱い遠慮勝な山本さんには、それも出来なかった。彼も、ある婦人と同棲《どうせい》した時代があって、二三年一緒に暮したことも有ったが、その婦人に別れてからは再び家を持つという考えは起さなかった。何処へ行っても彼は旅舎に寝たり起きたりした。そして、遠くの方でばかり女というものを眺《なが》めていた。丁度その旅舎の窓から美しい日光でも眺めるように。尤《もっと》もこれは山本さんの遠慮勝な性分から来たことだ。正直な話が、山本さんは是方《こちら》から愛した経験は有っても、未だ他《ひと》のように、真実《ほんとう》に愛されたということを知らなかった。こんな風にして一生は済んで了うのか。それを彼は考えた。最早《もう》山本さんも三十九だ。
しかし山本さんには、唯一度、愛されたと思うことが有った。
山本さんは独《ひと》りで手を揉《も》んだ。そして、すこし紅く成った。何故かというに九年も前の話だから……しかも十七ばかりに成る、妹のような娘から、唯《たった》一度の接吻《キス》を許されたのだから……
その娘は腹違いの妹の学校友達で、お新と言って、色の黒い理窟《りくつ》好な異母妹《いもうと》とは大の仲好だった。仙台の方にあの娘達の入る学校も無いではないが、二人は東京へ出て、同じ寄宿舎から同じ学校へ通った。丁度山本さんは朝鮮から帰って来て、郷里の方で一夏暮したことが有った。暑中休暇で娘達も家に居る頃で、毎日のようにお新は異母妹の許《ところ》へ遊びに来た。妹達が「兄さん、兄さん」と言ってめずらしがれば、お新も同じように彼を呼んで、まるで親身の妹かなんぞのように忸々《なれなれ》しく彼の傍へ来た。
彼は菖蒲田《しょうぶだ》の海岸の方へ娘達を連れて行ったことを思出した。異母妹とお新とは、互に堅く腕を組合せて、泡立ち流れる潮の中を歩いたことを思出した。水浴する白い濡《ぬ》れた着物が娘達の身体に纏《まと》い着いたことを思出した。時々明るい波がやって来ては、処女《むすめ》らしい、あらわな足を浚《さら》ったことを思出した。その頃は娘達の髪はまだ赤かったが、でも異母妹《いもうと》から見ると、麦藁《むぎわら》帽子を脱いだお新の方は余程黒かったことを思出した。
彼はまた、帰校する娘達を送りながら、一緒に上京した時のことを思出した。二日ばかりお新は彼の旅舎に居たことを思出した。
最早《もう》昔話だ。それからもお新は異母妹と一緒に、度々《たびたび》旅舎へ遊びに来たが、彼の方では遠くでばかり眺めていた。彼が二度目に南清行を思い立った頃は、娘達も学校を卒業して、見違えるほど大きく、姉さんらしく成った。殊《こと》にお新の優美な服装は、見送りの為に停車場《ステーション》へ集った都会風な、多くの学友の中でも、際立《きわだ》って人の目を引いた。山本さんも見送りに行って、汽車の窓の外で別れた。
これが愛されたのだろうか。過《すぐ》る年月の間、山本さんが思を寄せた婦人も多かった。不思議にも、そういう可懐《なつか》しい、いとしいと思った人達の面影は、時が経つにつれて煙のように消えて行った。ガヤガヤガヤガヤ夕方まで騒いでいた鳥が、皆な何処へか飛んで行って了うと同じで、後に成って見ると一羽も彼の胸には留っていなかった。唯……九年も前の、それも唯一度の接吻《キス》が残った……
時が経てば経つほど、あの花弁《はなびら》のように開いた清い口唇《くちびる》は活々《いきいき》として記憶に上って来た。何処へ行って、何を為ても、それだけは忘れられなかった。ある時支那の方に居る友達が集って、互に身上話などを始めて、一体山本さんはどうしたんだと言出したものが有ったら、その時彼は自分の一生は片恋の連続だと真面目顔《まじめがお》に答えた。それが一つ話に成って、それから山本さんのことを「頭の禿げた坊ちゃん」と、皆なで言って笑うように成った。そうだ、山本さんは最早二十六にも成る人妻を九年前と同じように眺めて、何を待《まつ》ともな
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