テ《めい》の愛子の夫にあたる人の郷里は常陸の海岸の方にあった。その縁故から岸本はある漁村の乳母《うば》の家に君子を托《たく》して養って貰《もら》うことにしてあった。
「捨さんも、そうして何時《いつ》までも独りでいる訳にも行きますまい。どうして岸本さんではお嫁さんをお迎えに成らないんでしょうッて、それを聞かれる度《たび》に私まで返事に困ってしまう」
 根岸の嫂はこんな言葉をも残して置いて行った。
 こうした親類の女の客があった後では、岸本は節子と顔を見合せることを余計に苦しく思った。それは唯の男と女とが見合せる顔では無くて、叔父と姪との見合せる顔であった。岸本は節子の顔にあらわれる暗い影をありありと読むことが出来た。その暗い影は、「貴様は実に怪《け》しからん男だ」という兄の義雄の怒った声を心の底の方で聞くにも勝《まさ》って、もっともっと強い力で岸本の心に迫った。快活な姉の輝子とも違い、平素《ふだん》から節子は口数も少い方の娘であるが、その節子の黙し勝ちに憂い沈んだ様子は彼女の無言の恐怖《おそれ》と悲哀《かなしみ》とを、どうかすると彼女の叔父に対する強い憎《にくし》みをさえ語った。
「叔父
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