コさるのが、何よりでございます。そりゃもう御察しいたしております。歌の一つも聞いて見ようという御心持は手前共にもよく分っております……」
「よくそれでも御辛抱が続くと思いますよ。そんなにしていらしって、先生はお寂しか有りませんか……奥さんもお迎えなさらず……」
元園町は盃を手にしてさも心地《ここち》よさそうに皆の話を聞いていたが、急に岸本の方を強く見て言った。
「岸本君の独《ひと》りで居るのは、今だに僕には疑問です」
岸本は人知れず溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
二十
「僕は友人としての岸本君を尊敬してはいますが」とその時、元園町は酒の上で岸本を叱《しか》るように言った。「一体、この男は馬鹿です」
「ヨウヨウ」と髪の薄い女中は手を打って笑った。「元園町の先生の十八番《おはこ》が出ましたね」
「あの『馬鹿』が出るようでなくッちゃ、元園町の先生は好い御心持に御酔いなさらない」と年嵩な方の女中も一緒に成って笑った。
岸本は自分の家の方に仕残した用事があって、長くもこの場所に居なかった。心持好さそうに酔い寛《くつろ》いでいる友人を二階座敷に残して置いて、やがてその家
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