オい身《からだ》に僅《わずか》の閑《ひま》を見つけて隅田川の近くへ休みに来る時には、よく岸本のところへ使を寄《よこ》した。
「御無沙汰《ごぶさた》しました」
と言って坐り直す元園町をも、岸本をも、「先生、先生」と呼ぶほど、その家には客扱いに慣れた女達が揃《そろ》っていた。
「元園町の先生は先刻《さっき》から御待兼《おまちかね》でございます」
と髪の薄い女中が言うと、年嵩《としかさ》な方の女中がそれを引取って、至極|慇懃《いんぎん》な調子で、
「岸本先生もしばらく御見えに成りませんから、どうなすったろうッて皆で御噂を申しておりましたよ。御宅でも皆さん御変りもございませんか。坊ちゃん方も御丈夫で」
岸本が古い小曲の一ふしも聞いて見るために友人と集ったり、折々は独りでもやって来て心を慰めようとしたのは、その二階座敷であった。年と共に募る憂鬱《ゆううつ》な彼の心は何等《なんら》かの形で音楽を求めずにいられなかった。曾て彼が一度、旧友の足立をその二階に案内した時、「岸本君がこういうところへ来るように成ったかと思うと面白いよ」と言って足立は笑ったこともあった。どうかすると彼は逢《あ》い過ぎる
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