「》て過ぐる年月の間あえて人には劣らなかったつもりだと言って見たところで、それがまた何の弁解にも成らなかった。自分は多少酒の趣味を解し、上方唄《かみがたうた》の合《あい》の手のような三味線を聞くことを好み、芸で身を立てるような人達を相手に退屈な時を送ったこともあるが、如何《いか》なる場合にも自分は傍観者であって、曾《かつ》てそれらの刺戟《しげき》に心を動かされたこともなかったと言って見たところで、それが何の弁解の足《た》しにも成らないのみか、あべこべに洒脱《しゃだつ》をよそおい謹厳をとりつくろう虚偽と偽善との行いのように自分ながら疑われて来た。のみならず、小唄の一つも聞いて見るほどの洒落気《しゃれけ》があるならば、何故もっと賢く適当に、独身者として大目に見て貰《もら》うような身の処し方をしなかったか、とこう反問するような声を彼は自分の頭脳《あたま》の内部《なか》ですら聞いた。
しばらく岸本は何事《なんに》も考えられなかった。
部屋には青い蓋《かさ》の洋燈《ランプ》がしょんぼり点《とぼ》っていた。がっしりとした四角な火鉢《ひばち》にかけてある鉄瓶《てつびん》の湯も沸いていた。岸本は茶
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