モウん」
と楼梯《はしごだん》のところで呼ぶ声がして、泉太が階下《した》から上って来た。
「繁ちゃんは?」と岸本が訊《き》いた。
泉太は気のない返事をして、何か強請《ねだ》りたそうな容子《ようす》をしている。
「父さん、蜜豆《みつまめ》――」
「蜜豆なんか止《よ》せ」
「どうして――」
「何か、何かッて、お前達は食べてばかりいるんだね。温順《おとな》しくして遊んでいると、父さんがまた節ちゃんに頼んで、御褒美《ごほうび》を出して貰《もら》ってやるぜ」
泉太は弟のように無理にも自分の言出したことを通そうとする方ではなかった。それだけ気の弱い性質が、岸本にはいじらしく思われた。妻が形見として残して置いて行ったこの泉太はどういう時代に生れた子供であったか、それを辿《たど》って見るほど岸本に取って夫婦の間だけの小さな歴史を痛切に想い起させるものはなかった。
町中に続いた家々の見える硝子戸の方へ行って遊んでいた泉太はやがて復た階下《した》へ降りて行った。岸本は六年の間の仕事場であった自分の書斎を眺《なが》め廻した。曾《かつ》ては彼の胸の血潮を湧《わ》き立たせるようにした幾多の愛読書が、さな
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