黷ス。彼女の母や祖母《おばあ》さんは郷里の山間に、父は用事の都合あって長いこと名古屋に、姉の輝子は夫に随《つ》いて遠い外国に、東京には根岸に伯母《おば》の家があってもそこは留守居する女達ばかりで、民助|伯父《おじ》――岸本から言えば一番|年長《としうえ》の兄は台湾の方で、彼女の力になるようなものは叔父としての岸本一人より外に無かったから。その夏輝子が嫁いて行く時にも、岸本の家を半分親の家のようにして、そこから遠い新婚の旅に上って行ったくらいであるから。
「繁《しげる》さん、お遊びなさいな」
と表口から呼ぶ近所の女の児の声がした。繁は岸本の二番目の子供だ。
「繁さんは遊びに行きましたよ」
と節子は勝手口に近い部屋に居て答えた。彼女はよく遊びに通って来る一人の女の児に髪を結ってやっていた。その女の児は近くに住む針医の娘であった。
「子供が居ないと、莫迦《ばか》に家《うち》の内《なか》が静かだね」
こう節子に話しかけながら、岸本は家の内を歩いて見た。そこへ婆やが勝手口の方から入って来た。
「お節ちゃん、女の死骸《しがい》が河岸へ上りましたそうですよ」
と婆やは訛《なま》りのある調子で
前へ
次へ
全753ページ中26ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング