ン本が別に多くの女の中から択《えら》んだでも何でもない自分の姪と一緒に苦しまねば成らないような位置に立たせられて行った。節子は重い石の下から僅《わずか》に頭を持上げた若草のような娘であった。曾《かつ》て愛したこともなく愛されたこともないような娘であった。特に岸本の心を誘惑すべき何物をも彼女は有《も》たなかった。唯《ただ》叔父を頼りにし、叔父を力にする娘らしさのみがあった。何という「生」の皮肉だろう。四人の幼い子供を残した自分の妻の死をそう軽々しくも考えたくないばかりに三年一つの墓を見つめて来た岸本は、あべこべにその死の力から踏みにじられるような心持を起して来た。しかも、極《きわ》めて残酷に。
「父さん。これ、朝?」
と繁が岸本のところへ来て、大きな子供らしい眼で父の顔を見上げて言った。繁はよく「これ、朝?」とか、「これ、晩?」とか聞いた。
「ああ朝だよ。これが朝だよ。一つねんねして起きるだろう、そうするとこれが朝だ」
岸本は言いきかせて、まだ朝晩の区別もはっきり分らないような幼いものを一寸《ちょっと》抱いて見た。
節子の様子をよく見るために岸本は勝手に近い小部屋の方へ行った。用事ありげにそこいらを歩いて見た。節子は婆やを相手に勝手で働いていた。時には彼女は小部屋にある鼠不入《ねずみいらず》の前に立って、その中から鰹節《かつおぶし》の箱を取出し、それを勝手の方へ持って行って削った。すこしもまだ彼女の様子には人の目につくような変ったところは無かった。起居《たちい》にも。動作にも。それを見て、岸本は一時的ながらもやや安心した。
節子を見た眼で岸本は婆やを見た。婆やは流許《ながしもと》に腰を曲《こご》めて威勢よく働いていた。正直で、働き好きで、丈夫一式を自慢に奉公しているこの婆やは、肺病で亡くなった旧《ふる》い学友の世話で、あの学友が悪い顔付はしながらもまだ床に就《つ》くほどではなく岸本のところへよく人生の不如意を嘆きに来た頃に、そこの細君に連れられて目見えに来たものであった。水道の栓《せん》から迸《ほとばし》るように流れ落ちて来る勢いの好い水の音を聞きながら鍋《なべ》の一つも洗う時を、この婆やは最も得意にしていた。
何となく節子は一番彼女に近い婆やを恐れるように成った。それにも関《かかわ》らず、彼女は冷静を保っていた。
十六
「旦那《だんな》さんは今朝《けさ》はどうかなすったんですか。御飯も召上らず」
二階へ雑巾《ぞうきん》がけに来た婆やがそれを岸本に訊《き》いた。
「今朝は旦那さんのお好きな味噌汁《おみおつけ》がほんとにオイしく出来ましたよ」とまた婆やが言った。
「なに、一度ぐらい食べないようなことは、俺《おれ》はよくある」と岸本は一刻も働かずにじっとしてはいられないような婆やの方を見て言った。「まあ俺の方はどうでも可《い》い。お前達は子供をよく見てくれ」
「なにしろ旦那さんの身体《からだ》は大事な身体だ。旦那さんが弱った日にゃ、吾家《うち》じゃほんとに仕様がない。よくそれでも一人で何もかもやっていらっしゃるッて、この近所の人達が皆そう言っていますよ。ほんとに吾家の旦那さんは、堅い方ですッて……」
雑巾を掛けながら婆やの話すことを岸本は黙って聞いていた。やがて婆やは階下《した》へ降りて行った。岸本は独りで手を揉《も》んで見た。
岸本は人知れず自分の顔を紅《あか》めずにはいられなかった。もしあの河岸《かし》の柳並木のかげを往来した未知の青年のような柔《やわらか》い心をもった人が、自分の行いを知ったなら。あの恩人の家の弘のように「兄さん、兄さん」と言って親身の兄弟のように思っていてくれる人や、それから自分のために日頃心配していてくれる友人や、山の方にある園子の女の友達なぞが、聞いたなら。岸本は身体全体を紅くしてもまだ羞《は》じ足りなかった。彼は二十七歳で早くこの世を去った友人の青木のことなぞにも想い到《いた》って、「君はもっと早く死んでいた方が好かった」とあの亡《な》くなった友達にまで笑われるような声を耳の底の方で聞いた。
もしこれが進んで行ったら終《しまい》にはどうなるというようなことは岸本には考えられなかった。しかし、すくなくも彼は自分に向って投げられる石のあるということを予期しない訳に行かなかった。彼はある新聞社の主筆が法廷で陳述した言葉を思い出すことが出来る。その主筆に言わせると、世には法律に触れないまでも見遁《みのが》しがたい幾多の人間の罪悪がある。社会はこれに向って制裁と打撃とを加えねば成らぬ。新聞記者は好んで人の私行を摘発するものではないが、社会に代ってそれらの人物を筆誅《ひっちゅう》するに外ならないのであると。こうした眼に見えない石が自分の方へ飛んで来る時の痛さ以上に、岸本は見物の
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