閧クに書斎の次の間から寝道具なぞを取出して来た。それを部屋の片隅《かたすみ》によせて壁に近く敷いた。
「やっぱり疝《せん》の気味でごわしょう。こうした陽気では冷込みますからナ」と言いながら針医は手にした針術《しんじゅつ》の道具を持って岸本の側へ寄った。
 ぷんとしたアルコオルの香が岸本の鼻へ来た。背を向けて横に成った岸本は針医のすることを見ることは出来なかったが、アルコオルで拭《ぬぐ》われた後の快さを自分の背の皮膚で感じた。やがて針医の揉込《もみこ》む針は頸《くび》の真中あたりへ入り、肩へ入り、背骨の両側へも入った。
「痛《いた》」
 思わず岸本は声をあげて叫ぶこともあった。しかし一番長そうに思われる細い金針《きんばり》が腰骨の両側あたりへ深く入って、ズキズキと病める部分に触れて行った時は、睡気《ねむけ》を催すほどの快感がその針の微《かす》かな震動から伝わって来た。彼は針医に頼んで、思うさま腰の疼痛《いたみ》を打たせた。
「自分はもう駄目かしら」
 針医の行った後で、岸本は独りで言って見た。手術後の楽しく激しい疲労から、長いこと彼は死んだように壁の側に横になっていた。部屋の雨戸の外へは寒い雨の来る音がした。

        十二

 年も暮れて行った。節子は姉と二人でなしに、彼女一人の手に叔父の家の世話を任せられたことを迷惑とはしていなかった。彼女は自分一人に任せられなければ、何事も愉快に行うことの出来ないような気むずかしいところを有《も》っていた。その意味から言えば、彼女は意のままに、快適に振舞った。
 しかしそれは婆やなぞと一緒に働く時の節子で、岸本の眼には何となく楽まない別の節子が見えて来た。姉がまだ一緒にいた夏の頃、節子は黄色く咲いた薔薇《ばら》の花を流許《ながしもと》の棚の上に罎《びん》に挿《さ》して置いて、勝手を手伝いながらでも独《ひと》りで眺《なが》め楽むという風の娘であった。「泉ちゃん、好いものを嗅《か》がして進《あ》げましょうか」と言いながらその花を子供の鼻の先へ持って行って見せ、「ああ好い香気《におい》だ」と泉太が眼を細くすると、「生意気ねえ」と快活な調子で言う姉の側に立っていて、「泉ちゃんだって、好いものは好いわねえ」と娘らしい歯を出して笑うのが節子であった。節子姉妹は岸本の知らない西洋草花の名なぞをよく知っていたが、殊《こと》に妹の方は精《
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