閧ナなく、同時にまたあらゆる危害から幼いものを護ろうとして一寸《ちょっと》した物音にも羽翅《はがい》をひろげようとする母鶏の役目までも一身に引受けねばならなかった。子供の泣き声がすると、彼は殆《ほとん》ど本能的に自分の座を起《た》った。部屋の外にある縁側に出て硝子戸を開けて見た。それから階下へも一寸見廻りに降りて行った。
「子供が喧嘩《けんか》しやしないか」
 と彼は節子や婆やに注意するように言った。
「あれは他《よそ》の家の子供です」
 節子は勝手口に近い小部屋の鼠不入《ねずみいらず》の前に立っていて、それを答えた。何となく彼女は蒼《あお》ざめた顔付をしていた。
「どうかしたかね」と岸本は叔父らしい調子で尋ねた。
「なんですか気味の悪いことが有りました」
 岸本は節子が学問した娘のようでも無いことを言出したので、噴飯《ふきだ》そうとした。節子に言わせると、彼女が仏壇を片付けに行って、勝手の方へ物を持運ぶ途中で気がついて見ると、彼女の掌《て》にはべっとり血が着いていた。それを流許《ながしもと》で洗い落したところだ。こう叔父に話し聞かせた。
「そんな馬鹿な――」
「でも、婆やまでちゃんと見たんですもの」
「そんな事が有りようが無いじゃないか――仏壇を片付けていたら、手へ血が附着《くっつ》いたなんて」
「私も変に思いましたからね、鼠かなんかの故《せい》じゃないかと思って、婆やと二人で仏さまの下まですっかり調べて見たんですけれど……何物《なんに》も出て来やしません……」
「そんなことを気にするものじゃないよ。原因《もと》が分って見ると、きっとツマラないことなんだよ」
「仏さまへは今、お燈明をあげました」
 節子はこの家の内に起って来る何事《なに》かの前兆ででもあるかのように、それを言った。
「お前にも似合わないじゃないか」岸本は叱《しか》って見せた。「輝が居た時分にも、ホラ、一度妙な事があったぜ。姉さんの枕許《まくらもと》へ国の方に居る祖母《おばあ》さんが出て来たなんて……あの時はお前まで蒼《あお》くなっちまった。ほんとに、お前達はときどき叔父さんをびっくりさせる」
 日の短い時で、階下の部屋はそろそろ薄暗くなりかけていた。岸本は節子の側を離れて家の内をあちこちと歩いて見たが、しまいには気の弱いものに有りがちな一種の幻覚として年若な姪《めい》の言ったことを一概に笑ってしま
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