フ方へ帰って行って、老祖母《おばあ》さんや、母や、兄夫婦や、それから年とった正直な家僕なぞと一緒に居て貰いたいと思った。後になって考えると、それが彼の上京後唯一度の父子の邂逅《めぐりあい》であったのである。それぎり彼は父を見なかった。

        百十六

 岸本が父を知るように成ったのは、寧《むし》ろ父が亡くなってからの後のことであった。漸《ようや》く彼が青年期に入って彼自身の遽《にわ》かな成長を感じ始めた頃、郷里の方にある老祖母さんの死去を聞いて一度帰省したことがある。民助兄もその頃は既に東京で、彼は兄の代理として老祖母さんを弔いかたがた郷里に留守居する母や嫂の方へ帰って行った。その時、彼は久しぶりで自分の生れた家を見たばかりでなく、父の遺《のこ》した蔵書を見せようと云う母の後に随《つ》いて裏庭の方へ出た。母屋《おもや》の横手から土蔵の方へ通う野菜畑と桑畑《くわばたけ》の間の径《みち》、老祖母さんの隠居所となっていた離れの二階座敷、土蔵の前に植てある幾株かの柿の木、それらは皆な極《ごく》幼い頃に見たと変らずにあった。母は暗い金網戸の閉った土蔵の石段の上に立って、手にした大きな鍵《かぎ》で錠前をガチャガチャ言わせ、やがて彼を二階の方へ案内した。そこに老祖母さんの嫁に来た時の長持が残っている。ここに母の長持が置いてある。それらの古い道具を除いては、土蔵の二階にあるものは父の遺した沢山な書籍《ほん》であった。壁によせて積重ねてある古い本箱からは主として国学に関する書籍が出て来た。それを見て、彼は自分の父がどれ程あの古典派の学説に心を傾けたかを感知した。彼が英学を修め始めた時はまだ父は生きていて、非常に心配した手紙をくれたが、あの父の心持も思い当った。
 その頃から彼は一層よく父を知ろうとするように成った。父に関したことは、いかなる小さな話でも心に留めて置こうとした。折ある毎《ごと》に彼は身内のものや父を知っている人達に父のことを尋ねた。民助兄にも。義雄兄にも。田辺の小父にも。田辺のお婆さんにも。そして、それらの人達の記憶に残るきれぎれな話から父の生涯を想像しようとした。意外にも彼は人から聞いた話よりも、彼自身の内部《なか》に一層よく父を見つけて行った。彼は自分の内部から押出すようにして延びて来る生命《いのち》の芽が、一切の物の色彩を変えて見せるような憂鬱な世界の
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