、何がなしに彼は国の方へ宛てて旅の便《たよ》りを書送りたいと思う心が動いた。やや単調ではあったが汽車の窓から望んで来たボルドオ附近の平野、見渡すかぎり連り続いた葡萄畑、それらの眺望《ちょうぼう》はまだ彼の眼にあった。幾度《いくたび》となく彼は旅館の一室で暖炉の前に紙を展《ひろ》げて見たり、部屋の内をあちこちと歩いて見たりして、とかく思うように物書くことも出来ないのを残念に思った。部屋の壁には小さな海の画の模写らしい額が掛っていた。それを見てさえ彼の胸には久しぶりで海に近く来た旅の心持を浮べた。
深い秋雨に濡《ぬ》れながら岸本は町を出歩いた。そこにある大使館を訪《たず》ねて巴里の方の様子を聞くために。あるいはサン・タンドレの寺院を見、あるいはボルドオの美術館なぞを訪ねるために。時とすると新たに戦地の方へ向おうとする歩兵の群が彼の行く道を塞《ふさ》いだ。灰色がかった青地の新服を着けた兵士等の胸には黄や白の菊の花が挿《さ》され、銃の筒先にまでそれが翳《かざ》されてあった。夫を、兄弟を、あるいは情人を送ろうとして、熱狂した婦人がその列に加わり、中には兵士の腕を擁《かか》えて掻口説《かきくど》きながら行くのも有った。
ガロンヌ河はこの都会の中を流れていた。岸本に取っては縁故の深いあの隅田川《すみだがわ》を一番よく思い出させるものは、リオンで見て来たソオンの谿流《けいりゅう》でもなく、清いセエヌの水でなく、リモオジュを流れるヴィエンヌでなくて、雨に濁ったこのガロンヌの河口であった。そこには岸本の足をとどめさせる河岸《かし》の眺めがあったばかりでなく、どうかすると雨が揚がって、対岸に見える工場の赤屋根には薄く日が映《あた》った。ちぎれた雲の間を通して丁度日本の方で見るような青い空の色を望むことも出来た。つくづく岸本は郷国《くに》を離れて遠く来たことを思った。
百六
再び巴里を見るのは何時《いつ》のことかと思って出て来たあの都の方へもう一度帰って行く楽しみを思い、新しい言葉の世界が漸《ようや》く自分の前に展《ひら》けて来た楽しみを思い、ボルドオから岸本は夜汽車で発《た》った。今度帰って見たらどういう冷い風があの都を吹き廻しているだろう、幾人《いくたり》の同胞に逢《あ》えることだろう、と彼は思いやった。窓の外は暗し、車中で眠ろうとしても碌々《ろくろく》眠られ
前へ
次へ
全377ページ中149ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング