して置いて来ました。この小父さんはそんなに可恐いものでは有りませんよ」
 こう岸本は言って、それから三人の小娘に歌を所望した。パトアと称《とな》える方言で出来た小唄のあることを彼は宿の主婦からも聞き、少年のエドワアルからも聞いていた。この岸本の所望は歌好きな小娘達を悦ばせた。遠く泉太や繁から離れて来ている旅の空で、無邪気な子供の口唇《くちびる》から仏蘭西の田舎の俗謡を聞いた時は、思わず岸本は涙が迫った。

        百一

 うちしめった秋らしい空気の中を岸本はバビロン新道《しんみち》の方へ引返して行った。丁度宿の前あたりで野外の画作を終って帰って来る牧野と一緒に成った。少年のエドワアルも牧野の代りに油絵具の箱なぞを肩に掛け、町はずれの国道の方から連立って帰って来た。
「復《ま》た好い画が一枚出来ましたよ」
 エドワアルはそれを岸本に言って見せ、入口の庭にある葡萄棚の下あたりを歩いている主婦《かみさん》にも言って見せた。
「リモオジュのお土産が沢山お出来に成りますね。ほんとに牧野さんのはずんずん描いておしまいなさる」
 と主婦が庭に居て言うと、主婦の姉さんも台所の窓から顔を出して年老いた婦人らしく皆の話すところを聞いていた。その背後《うしろ》から顔を見せる主婦の姪もあった。
 岸本は牧野と一緒に入口の石階《いしだん》を上って田舎家《いなかや》らしい楼梯《はしごだん》の欄《てすり》に添いながら二階の方へ行った。リモオジュの秋は牧野に取っても収穫の多かった時で、引継ぎ引継ぎ出来た風景や静物の画のまだよく乾《かわ》かないのが二階の部屋の壁を一面に占領したくらいであった。岸本は牧野の部屋に行って見る度に、先《ま》ずその油絵具の乾く強い香気《におい》に打たれた。牧野の旅の骨の折れるらしいことは岡に変らなかったが、気鋭で綿密なこの画家は岡が考え苦んで思わしい製作も出来ずにいる間に、どしどし画筆を着けながら疑問を解いて行くという風であった。旅に来て岸本が懇意に成った画家の中でも、岡と牧野とはそれほど気質を異にしていた。東京の方にある中野の友人の噂《うわさ》をしたり、倫敦《ロンドン》へ戦乱を避けて行った高瀬や岡や小竹の噂をしたり、時には夜遅くまで芸術上の談話に耽《ふけ》ったりして、田舎へ来てから岸本が唯《ただ》一人の親しい話相手であり、慰藉《いしゃ》と刺激とを与えてくれたのも
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