も見えた。浅い谷間の草を食いに来る羊の群、その柔和な長い耳、細い足――そうしためずらしい仏蘭西の田舎の光景《ありさま》は国の方に留守居する子供等の眼を悦《よろこ》ばすであろうと思われた。すこし行けばツウルウズ街道(仏蘭西国道)に出られる彼の宿の周囲には、その絵葉書に見るような牧場が行先に展《ひら》けていた。
 書いた葉書を投函《とうかん》するために岸本は宿を出た。日本人をめずらしがって煩《うるさ》く彼に附纏《つきまと》うた界隈《かいわい》の子供等も、二月ばかり経《た》つうちに彼を友達扱いにするものも多かった。ある町はずれまで行くと、そこには繩飛《なわと》びの仲間入を勧める小娘が集っていた。ポン・ナフという石橋の畔《たもと》まで歩いて行って見ると、そこには彼の側へ来て握手を求める男の児が居た。
「ムッシュウ」
 と呼んでよくその児は走り寄って来た。その児は彼が外出する度に立寄っては腰掛ける橋畔の小さな珈琲店《コーヒーてん》の一人|子息《むすこ》であった。
 ヴィエンヌ河はその石橋の下を流れていた。休息の時を送ろうとして岸本は水辺《みずべ》まで下りて行った。岸に並んで洗濯する婦女《おんな》の風俗などを見ても、田舎にある都会の町はずれとは思われないほど鄙《ひな》びたところであった。石の上で打つ砧《きぬた》の音も静かな水に響けて来た。しばらく岸本は戦争を外《よそ》に砧の音を聞いていた。その時、つと見知らぬ少年が彼の側へ来て声を掛けた。
「異人さん、すこし日本の方のことを聞かせて下さい」
 見ると小学校の上の組の生徒か、あるいはこの町にある簡易な商業学校の下の組の生徒かと思われるほどの年頃の少年だ。
「仏蘭西と日本と何方《どっち》が奇麗でしょう。日本の方が仏蘭西よりはもっと奇麗でしょうか」
 この少年の問は岸本を困らせた。
「そんなことが君、比べられるもんですか」と岸本が言った。「君の国だって奇麗なところも有り、そうで無いところも有るでしょう――僕等の国もその通りでさ」
「日本の海はどんな色でしょう」と復《ま》た少年が訊《き》いた。「黄色でしょうか」
「どうして君、青い色でさ――透明な青い色でさ――それは美しい海ですよ」
 怜悧《りこう》そうな少年の瞳《ひとみ》に見入りながら岸本がそう答えると、少年はまだ見たことのない東洋の果を想像するかのように、
「透明な青い色か」と繰返し
前へ 次へ
全377ページ中140ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング